諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

白山信仰の「白」について、瀬織津姫で再び考えてみた。 その3

2014年10月21日 09時18分09秒 | 瀬織津姫
続きます。

えー、何か、またまた横道にそれちゃいましたね。漢字と言うのは象形文字からスタートしている訳で、元々の意味は間違って解釈されているケースが多いと言う事が、何となく判って頂けたでしょうか。

私は外国語の知識は皆無に等しいのですが、日本語の会話能力や文章能力の高さって世界でも有数じゃないでしょうか。

日本人は意思表示が苦手と言われていますが、英語みたいにニュアンスやジャスチャーも殆ど必要ない。たから言葉回しで十分意思を表示できる。これは日本語が難しいと言われる一員ではありますが、高度な語学ゆえ難しいのだと思います。

もっとも数字でも「いち、に、さん、し、ご、ろく・・・・・」と「ひい、ふう、みー、よ、いつ、む・・・・・」と二種類が有る。これは二つの民族の語源を意味している。それが表現力を高めている反面、難しくしている様に思えます。

例えば体に身に付けるにしても「帽子をかぶる」、「服を着る」、「ジーンズを穿く」と違う表現となります。全て「着る」で理解できるのに言いあらましが違う。しかも「服を着る」と「服を切る」では正反対の意味になる。これは難しいと思いますね。

うーん、そろそろ何時もの様にシドロモドロになりつつありますが、「穿く」の意味です。直訳すると「穴を開けて入る」です。ジーンズは足から入れます。足から入れるのは「穿く」です。
そうそう、忘れてました。「靴を履く」の「履く」もありましたね。この「履く」の直訳は「踏み潰す」。同じ足から入れるのだから「穿く」で統一してもいいと思うのですが、元々意味合いが違う。それでも同じ発音である。それは「ハク」と言う発音が漢字が渡来する前は同じ意味だったと言えます。

えー、まどろっこしい説明を続けてきましたが、「ジーンズを穿く」の「ハク」の本来の意味を言います。それは「剥ぐ(ハグ)」です。「靴を履く」の「履く」も同じく「剥ぐ」から来ています。つまり「ハク」は間違って表記されている。正反対の意味となります。

何故、正反対の意味になったのか。私には上手く説明できませんが、「愛、幸、光」が間違った意味に捉えられた流れと同じ件だと思います。

ここまで言ったら、このブログを読んでくださっている奇特な方は、「剥ぐ」と瀬織津姫の関連はお分かりだと思います。

瀬織津姫は三途の川の奪衣婆。死者の衣類を剥いで、衣類の重さで死者の罪を計る。

そして瀬織津姫をアイヌ語で約すと以前ブログでも書きましたが、「セ=背負う」、「オ=入る」、「リ=毛皮を剥がす」です。「ツ」は間接詞で「~の」と考えます。つまり直訳すると「毛皮を剥いで背負い入る姫神」。

更に「穢れ」の語源は「毛刈り」です。「リ=毛皮を剥がす」は「毛刈り」と同じ意味。つまり「穢れ」と訳せます。

三途の川は境界線。黄泉の国への境界線です。それを組みしてセ・オ・リ・ツ・姫」を約すと「人々の穢れを背負い、黄泉の国に持って行ってくれる女神」となります。

やっとここまで持ってきました。つまり瀬織津姫で「白山」を約すと「剥ぐ山」になります。
山は古来、黄泉の国とされていました。熊や蛙、そして蛇は山で冬眠します。生と死の世界を行き来すると考えられてました。だから山は死の世界、黄泉の国となります。

穢れを背負い黄泉の国である山に持って行ってくれる瀬織津姫。だから瀬織津姫で考えると「剥ぐ山=白山」になるのではないでしょうか。

長々と大それた事を書いてきましたが、ここで疑問が発生します。瀬織津姫の源流と言うか、モデルです。

卵が先が鶏が先かとなりますが、瀬織津姫の役割を果たしていた人間のいます。その人間の源流を遡れば、これまた違う意味合いが考えられます。

それは何か。

もう私、精神力の限界に来ましたので、それは亦、次の機会にストーリーを練り上げてからお話したいと思います。


ではでは。










 
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白山信仰の「白」について、瀬織津姫で再び考えてみた。 その2

2014年10月18日 02時37分39秒 | 瀬織津姫
続きます。

瀬織津姫と関わりのある「ハク」とは何か。

答えは「穿く」です。どうですか、想像通りでしたでしょうか。多分、思いも寄らなかったのではないでしょうか。

「穿く」は「ジーンズを穿く」の「穿く」です。どう瀬織津姫に繋がるのか判らないでしょうね。それは無理ないです。「穿く」は本当は違う意味ですから。

日本語って、本来の意味とは違う解釈されているケースが多いんです。

例えば「愛」。「愛しているよ、だからさぁー、いいじゃないのぉー。ダメよ、ダメダメ」の「愛」です。愛の意味はLOVEではないのです。本当は「心が苦しい」と言う意味です。

多分、異性を好きになり心が苦しくなったりするもんですから、「愛=LOVE」となったのだと思いますが、本来は全く違う意味です。

「幸」もそうです。「幸福」との意味合いから「幸=ハッピー」となっていますが、元々幸の字は「縄でぐるぐる巻きに縛られている状態、「拘束されている状態」を示してます。

そう言われれば、「幸」の字って縛られている人間の姿に見えるでしょ。意味的には「不自由」が近いのではないでしょうか。

縛られている人は奴隷とか罪人、捕虜なんでしょうけど、「縄を解いてもらって自由になれたらハッピーだろうなぁー」と言う感情が誤解されて浸透し、「幸=ハッピー」となったのだと思います。これも正反対の意味になってますね。

「光」の場合も勘違いされています。「光」は罪人等を裸にして跪かせ、その背中を火で炙っている光景が「光」なのです。つまり「光」は火炙りの刑であり、拷問なのです。

ほら、そう言われれば、「光」の字の形もそれらしく見えるでしょ。これも多分、火炙りの刑の光景で火が眩しく「光=ライト」と言う意味になったのだと思います。

因みに私は中学から大学まで地元の私立大学に通いました。プロテスタント系の大学です。

「ライフ、ライト、ラブ」の3L精神を信条としている学校です。この3L精神を「生活、光、愛」で直訳すると「人生は拷問。苦しいだけ」となっちゃいます。

更に校歌の一説に「世の光、我が誇り、いざ褒めよや友よ~」と言うフレーズがあるのですが、「光」を「火炙り」で約すと「この世の中の人間を火炙りにしてやったぞ。それが我々の誇りだ。良くやったなぞ皆」」と言う、恐ろしい意味合いになっちゃいます。これは流石に黙っておくべきですね。

さて、何故私がこれらの意味を知っていたのか不思議でしょう。私は因果な家系に生まれたもんですから、何とか自分の不運を緩和する為に、姓名判断をかじっています。その流れで知っていたのです。

「愛、幸、光」は人名に使われる文字でも特に人気がありますが、本来は上記の意味合で大凶の名前です。これ、姓名判断の世界では結構常識で、知っている人も多いと思います。

思い出して見てください。そう言われるとこれらの文字が付く名前の人、結構不運に見舞われているのがお分かりでしょう。

例は流石に差し障りがあるので言いませんけど、出来ればご自分の名前に使われている文字の本来の意味くらいは、調べておいた方が良いと思います。

姓名判断は画数の数霊、陰陽の流れも運を左右しますが、一番重要なのは名前の意味です。間違った意味の名前を付けられる事は大変不幸ですよ。情けないくらいに。

因みに逆の例を挙げると、「悪」とは「強い」と言う意味です。これも強い事に反感を買ってバッドと言う意味になったんでしょう。

昔は「悪太郎」と悪口を言ってましたが、本来は「強い男」と言われていたことになります。もっとも強弱は揺れ動きますから、名前には使わない方が宜しいですけど・・・・・・。

それでも「愛、幸、光」の名前より「悪」の方が断然良い意味となります。まっ、自分の子に「悪」と名付ける人はあんまりいないでしょうけど(悪魔と名付けた人がいたっけ)、名前は子孫に対する最高の贈り物です。良い意味合いの名前を付けるに越した事は無いですね。


続く。



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白山信仰の「白」について、瀬織津姫で再び考えてみた。 その1

2014年10月16日 11時20分14秒 | 瀬織津姫
以前、白山信仰の「白」について、色々こじつけて考えて見ました。

白山の「白」は「吐く」ではないか。川の水源は山。川は山から流れる。山から泉が湧く。山は神。泉が湧くのではなく、神である山が水を吐く。つまり「吐く山」が「白山」になったのではないか。

「泉」は「白+水」で「泉」。水の色は無い。透明と言える。つまり「白」。清らかな水の色が「白」。

清らかな水を吐く山の「吐く」と「白」が同意語になった。だから「白山」と呼ばれる様になったのではないか・・・・・・・っとしたのが、「白山」と呼ばれる様になった私の考えです。

しかし、或る本を読んでいたら「白山」は「曰山」であるとする話が載っていました。

「白山」の「白」は「曰く」の「曰」。「朕曰く、饅頭が食べたい」の「曰く」。「つまり言葉を吐く」の意味の「曰く」です。

言葉を吐いた主は当然、白山信仰の神・菊理姫。

黄泉比良坂でイザナギ命とイザナミ命が対峙。山は黄泉の国でもある。

イザナミ命が「現世の人間の命を、毎日1000人分奪ってやる」と言ったら、今度はイザナギ命が「それなら毎日、1500人の人間を産んでやる」と言い争う。そこに菊理姫が現れる。

菊理姫はイザナギ命の耳元で何かを囁く。それを聞いてイザナギ命はニンマリ。全てに納得する。つまり菊理姫はイザナギ命に何らかの言葉を吐いた。

その菊理姫が言葉を吐いた山、つまり「吐く山」。それが「曰山」となり「白山」となったと言います。

私はイザナギ命とイザナミ命の仲を取り持った、括り付けたから括り姫。そこから菊理姫となったと思っていました実際は離婚したんですけど・・・・・)。

しかし、その「曰山説」では菊理姫はイザナギ命、イザナミ命、それぞれの意見を聞いて、それぞれに理を諭したから「聞く理姫」。それが「菊理姫」となったと言うんです。

うーん、納得です。なるほどと思います。辻褄が合います。私が信じていた「吐く山説」、「括り姫説」よりも信憑性が高いですね、こりゃ。これはチョット降参です。

私の「吐く山説」は「山が水を吐く」訳ですから、水神・瀬織津姫で考えた訳です。菊理姫は瀬織津姫であるとする説を信じて。

でも菊理姫オンリーで考えた方が、ストレートに意味が通じるし、納得しますね。うーん、どうしましょ。

こうなったら私も男。引くに引けない(引き篭もった生活してますが・・・・・)。

いや、別に私が正しいと主張する訳ではないですが、まだ何かが隠されている様な気がしていたのです。

それならあえて瀬織津姫オンリーで白山信仰の「白」をまた考えよう。前回とは違うタッチで迫ってみようと思った次第です。

それには「白(ハク)」の別の意味を最初から調べねばなりません。

「吐く、掃く、拍、箔、薄、迫、博」とハクにも色々意味合いがあります。

この中では「掃く」に興味を覚えます。鬼渡神は屋敷神でもあります。屋敷神には箒神がいます。埃(穢れ)を箒で掃う神です。祓い清めですから瀬織津姫にも繋がると思います。

でも「掃く」は今の私には難しい。鬼渡神を絡めて考えると多くの意味合いが出てきます。どうやって終わらせて良いのか考えもつきません。これはバスです。今回「掃く」で考えるのは止めときます。別の「ハク」にします。

その別の「ハク」とは・・・・・・・・・・・・、


つづく。











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神輿を担ぐ馬鹿。

2014年10月12日 01時29分14秒 | 神道
今月の19日。友人の神社で毎年恒例となっている神輿渡御に参加する。

友人の神社は仙台の中心部にある。中心部故、年々過疎と言ったら良いのか、住人が減少している。氏子が減っているのである。そこで私も駆り出されているのだが、この神輿渡御で毎年苦労している。

私の身長は165センチ。標準より背が低い。だから神輿は前を担ぐ。背の高い者は後ろを担ぐ事になる。

その時、私と同じ神輿の足を担ぐのは、私よりも身長が10数センチ低い男性と、少々知的障害のある男性。何故かそうなる。

神輿は肩で担ぐものだが、背の低い男性は肩で担げない。知的障害のある男性は私とほぼ同じ身長だが、必ずズルをする。担いでいるふりをするだけなのだ。

そうなると神輿の4分の1の重さは殆ど私が担いでいるようなものである。いや、前の方が低いからそれ以上の重さとなる。正直、肩の骨が砕けるのではないかと思うくらい痛い。何時もヘロヘロになって担いでいる。

この話を今日、私の両親にしたら「その知的障害の人、頭が良いな。お前が一番馬鹿だ」と言われた。父も母も、笑いながらに。

ここが私と両親が分かり合えないところだ。神輿には神社から祭神がお渡りになっている。神輿に神が乗っているのだ。力を抜く訳には行かない。神を乗せているのだから。

それが馬鹿だというなら、馬鹿で結構である。私からすれば神を乗せている神輿を担ぐふりをしている方が馬鹿だと思う。っと言っても知的障害がある人だから、それはしょうがない。
以前、担いでいるふりをしている彼を横で追走しているオバサマ方が注意した事がある。大変な事になった。彼が怒り出し、暴れまくって。

神輿を担いでいる最中、罰当たりも甚だしいと思ったが、障害のある人だからしょうがない。もう馬鹿になって私一人で神輿を担ぐつもりでやるしかない。

これもまた、祓い清めでもある訳だし。

肩の骨が砕けなければいいけど・・・・・。


ではでは。
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狩野英孝の実家、櫻田山神社。【離婚編】 その2

2014年10月09日 00時04分26秒 | 神道
続きます。

ここで神職と言う仕事、神社運営でどれほど気を使わなければならないのか。それを私の友人のケースで説明します。

神職はイメージの商売です。これは以前にも語りましたが、神職は失敗が許されません。

神社には縁結び、安産、家内安全、商売繁盛、合格祈願、厄払い、病気治癒、自動車のお払い等々の祈祷があります。その祈祷する神主が受験失敗したり、交通事故起こしたり、厄年で死んだり、家庭不和などしていたら、神社と言う商売上非常にマズイ訳です。神主が不幸に有ったら「あそこの神社に祀られている神様はご利益ないぞ」となります。そう思うのが普通です。

だからこそ神主は、気を付けて生きていかねばならんのです。祀られている神様の名誉の為にも、神社を維持する為にもです。

前回友人の神社の話ししましたが、震災で被害があった神社を修理するに当たって寄付金が集まったのも、鳥居や狛犬が寄進されたのも神主の人徳があってこそです。氏子に慕われなくては神職は務まらない。神社も成り立たないのです。

その為、友人の努力は並々ならないものがあります。

先ずは学校。自分もそうですが、子供3人とも私立の中学に行かせてます。中学から大学までエスカレートで上がれる学校です。神社の息子なのにプロテスタントの学校へ通わせてます。神道とかキリスト教とかどうでも良いのです。神社の息子が受験で不合格になる訳には行きません。それが大事なのです。

クルマもそうです。バイクの免許は危ないからと言って取らす、クルマに乗れるのも後10年位と言ってます。60歳でクルマを運転するのを止めるつもりなのです。  

確かに60歳にもなれば体力も落ちます。動体視力も運動神経も、若い頃に比べたら大分下がるでしょう。でも60歳ってクルマの運転が出来なくなるって歳じゃないですよね。私の親父なんか今年80歳ですが、毎日クルマに乗ってます。60歳でクルマを降りる人は殆どいないと思います。

それでもクルマを降りる決意をしたのは、万が一の事故を考えてのことでしょう。其処まで神職の仕事をストイックに考えています。流石に私も呆れる反面、尊敬しちゃいます。

極めつけは神職を続ける上での結婚の考え方です。

彼は32歳で見合いをします。相手は何と18歳。高校を卒業して直ぐに見合い。そして婚約。20歳になるのを待って34歳で結婚しました。「援助交際で知り合ったのか」と言ったら怒ってましたけど。

其処までして結婚したのは、やはり神社の跡継ぎを残さなくてはならない。だから若い女性をと考えたのでしょう。それと相手の身辺も神社を営む上では周到にしなくてはならない。それもあると思いますね。

ここまで抜かりなく考えて、神職を勤め上げているのです。彼の父親、祖父と特級宮司なのも頷けると思いました。

そう言うストイックさが必要とされる神職ですが、お笑い芸人である狩野英孝さんはハンデがあると思います。

難しいとは思いますが、キッパリと芸能界から足を洗って勤めた方が良い。それが出来ないのであれば、次期宮司の座は弟さんに譲るべきだと思います。

何の関わりのない私が言える立場では御座いませんが、1500年続いている櫻田山神社です。彼の人気で神社は潤うでしょうけど、神社は5年、10年の年月じゃないです。櫻田山神社の今後を考えれば、その方が良いのではと老婆心ながら思う次第です。

それと、もう一つ。やっぱりミヤギケンタウルスは神社から撤去した方が良いと思います。今度は狩野さんだけではなく、サンドイッチマンのお二人にも、何らかの不幸が降りかかるのではないかと心配です。

あの二人はあれで中々の善行しています。彼らの東北復興への努力には頭が下がります。それだけに何もなければと良いと願ってます。


ではでは。




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