終わりたいです。続きます。
イエスが処刑された後のストーリーです。
処刑されたイエスの遺体は、洞穴の遺体安置所、もしくは墓に置かれます。
ここから福音書、或いは外典によってストーリーは多く存在します。
一番シンプルなのは罪深き女がイエスの遺体に香油を塗りに行ったら、イエスの遺体が無くなっていた。それだけの話です。
カトリックの新共同訳聖書の福音書となると大幅にストーリーが加わります。
マグダラのマリアがイエスが十字架に掛けられて処刑され、洞穴に埋葬された場面を確認した。
マグダラのマリアともう一人のマリア等々がが安息日の後、イエスの遺体が埋葬された洞穴に行ったところ、大地震が発生。洞穴を塞いでいた大石が転がって穴の中が見えた。
二人のマリアがその洞穴を覗いたら、イエスの遺体が無くなっていた。そこに天使が現れイエスが復活したと告げられる。喜んだマリアたちはイエスの弟子達に知らせに行った。
更にはマグダラのマリアの前に復活したイエスが現れた。イエスは「これから父である神の所に行きます」語った。
まだまだストーリーはあるのですが、こんな感じです。
ここで重要なのはイエスの復活を最初に確認したのはマグダラのマリアだと言う事です。マグダラのマリアの発言から弟子達がイエスの復活を知り使徒行伝が始まるのです。
キリスト教の信仰はマグダラのマリアから始まった。或る意味、イエスの最初の真の信者はマグダラのマリアとなります。
ここまで書いて来ましたが、私が言いたい事をお分かりになったでしょうか。
つまりマグダラのマリアはイエスの信者である。つまりは人間。人間のマリアが何故に神道の代表的な神である瀬織津姫になるのか。
マグダラのマリアの罪に付いては色々と語られていますが、エクソシストであるイエスに7つの悪魔を追い出して貰ったと「新共同訳聖書・ルカによる福音書」は伝えています。
つまりマグダラのマリアはイエスによって罪を許された。神道的に言うとイエスによって祓い清められたのです。
瀬織津姫は祓戸の神。人々の罪を背負う神。祓い清めの神です。
瀬織津姫がマグダラのマリアだったら、何で祓い清めの神が他の神によって祓い清められなければならないのですか。祓い清めの神が祓い清められてどうすんですか。ここまで来ると馬鹿馬鹿しいですよ。
しかもマグダラのマリアが復活したイエスに触れようとしたら、イエスは「父である神の元に上がる身なので触るででない」と言っています。「新共同訳聖書・ヨハネによる福音書」にそう書かれています。
マグダラのマリアがイエスの妻であるとする説は、聖書が否定しているのです。
ダ・ヴィンチ・コードを見たのか、イエスとマグダラのマリアは夫婦でラブラブって自称・霊能者や日本のヒーラー達は言ってますけど、触れるなとイエスに言われているのに何で夫婦なのですか。何でサラと言う娘が出来たのでしょう。そこからしておかしいでしょ。その前に夫婦だったなんて書かれていませんし。
瀬織津姫は神です。そして神の子も神です。本当にサラと言う娘がイエスにいたのなら、サラもまた神でなければなりません。キリスト教ではサラなんて神は語られていませんし、神として伝わっていません。
聖書でもマグダラのマリアは神とされてないのに、マグダラのマリアが神道の大元の神とも言える瀬織津姫の筈は無い。絶対に在り得ません。以上です。
少々エキサイトしましたが上記の理由から、マグダラのマリアは神道の祓戸の神・瀬織津姫ではないと絶対の自信を持って断言します。
私の話が信じられない方もいるでしょうけど、少しは神道やカトリックでもプロテスタントでも良いのでキリスト教を学んで、自分の心に問いかけて考えてみてください。判断材料が無いと答えなんて出ませんから。
本当に馬鹿馬鹿しく思えるでしょうから。
ではでは。
イエスが処刑された後のストーリーです。
処刑されたイエスの遺体は、洞穴の遺体安置所、もしくは墓に置かれます。
ここから福音書、或いは外典によってストーリーは多く存在します。
一番シンプルなのは罪深き女がイエスの遺体に香油を塗りに行ったら、イエスの遺体が無くなっていた。それだけの話です。
カトリックの新共同訳聖書の福音書となると大幅にストーリーが加わります。
マグダラのマリアがイエスが十字架に掛けられて処刑され、洞穴に埋葬された場面を確認した。
マグダラのマリアともう一人のマリア等々がが安息日の後、イエスの遺体が埋葬された洞穴に行ったところ、大地震が発生。洞穴を塞いでいた大石が転がって穴の中が見えた。
二人のマリアがその洞穴を覗いたら、イエスの遺体が無くなっていた。そこに天使が現れイエスが復活したと告げられる。喜んだマリアたちはイエスの弟子達に知らせに行った。
更にはマグダラのマリアの前に復活したイエスが現れた。イエスは「これから父である神の所に行きます」語った。
まだまだストーリーはあるのですが、こんな感じです。
ここで重要なのはイエスの復活を最初に確認したのはマグダラのマリアだと言う事です。マグダラのマリアの発言から弟子達がイエスの復活を知り使徒行伝が始まるのです。
キリスト教の信仰はマグダラのマリアから始まった。或る意味、イエスの最初の真の信者はマグダラのマリアとなります。
ここまで書いて来ましたが、私が言いたい事をお分かりになったでしょうか。
つまりマグダラのマリアはイエスの信者である。つまりは人間。人間のマリアが何故に神道の代表的な神である瀬織津姫になるのか。
マグダラのマリアの罪に付いては色々と語られていますが、エクソシストであるイエスに7つの悪魔を追い出して貰ったと「新共同訳聖書・ルカによる福音書」は伝えています。
つまりマグダラのマリアはイエスによって罪を許された。神道的に言うとイエスによって祓い清められたのです。
瀬織津姫は祓戸の神。人々の罪を背負う神。祓い清めの神です。
瀬織津姫がマグダラのマリアだったら、何で祓い清めの神が他の神によって祓い清められなければならないのですか。祓い清めの神が祓い清められてどうすんですか。ここまで来ると馬鹿馬鹿しいですよ。
しかもマグダラのマリアが復活したイエスに触れようとしたら、イエスは「父である神の元に上がる身なので触るででない」と言っています。「新共同訳聖書・ヨハネによる福音書」にそう書かれています。
マグダラのマリアがイエスの妻であるとする説は、聖書が否定しているのです。
ダ・ヴィンチ・コードを見たのか、イエスとマグダラのマリアは夫婦でラブラブって自称・霊能者や日本のヒーラー達は言ってますけど、触れるなとイエスに言われているのに何で夫婦なのですか。何でサラと言う娘が出来たのでしょう。そこからしておかしいでしょ。その前に夫婦だったなんて書かれていませんし。
瀬織津姫は神です。そして神の子も神です。本当にサラと言う娘がイエスにいたのなら、サラもまた神でなければなりません。キリスト教ではサラなんて神は語られていませんし、神として伝わっていません。
聖書でもマグダラのマリアは神とされてないのに、マグダラのマリアが神道の大元の神とも言える瀬織津姫の筈は無い。絶対に在り得ません。以上です。
少々エキサイトしましたが上記の理由から、マグダラのマリアは神道の祓戸の神・瀬織津姫ではないと絶対の自信を持って断言します。
私の話が信じられない方もいるでしょうけど、少しは神道やカトリックでもプロテスタントでも良いのでキリスト教を学んで、自分の心に問いかけて考えてみてください。判断材料が無いと答えなんて出ませんから。
本当に馬鹿馬鹿しく思えるでしょうから。
ではでは。