諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

新聞販売店ほど辛くてバカバカしい商売は無い。その8

2022年06月22日 16時46分09秒 | 出版・テレビ・CM・ドラマ・映画
こんなに長く成るとは。続きます。

そして現在、私の家で販売していた新聞のABC発行部数は430万部台に落ち込んでいます。1年で44万部減少しています。私の家で販売店を経営していた時代は850万部でしたから、約30年で約半分に減ったことになります。

このABC発行部数ですが、勿論、押し紙込みの数値です。

私の予想ではありますが、押し紙は1割程度の筈は無いと思います。3割も押し紙がある店もあるとの話も聞こえます。ネットでは1日1000部の押し紙があると発言している販売店主もいます。

それでなくても新聞は半減している。その上に押し紙がある。こうなるとチラシの少ない地方の新聞販売店はお手上げ状態だと思います。

実は私の家で経営していた店は現在、新聞拡張団が経営しています。もう販売店主制では儲けが出ない。本社の補助を得て拡張団が配達をしている。もう配達のシステムは末期状態にあると思います。

そして関東でも新聞販売店主の自殺が増えている。新聞が激減して来た2018年から。

大量に入っていたチラシも大幅に減った。新聞部数も大幅に減っている。昔みたいに管理だけで利益が出なくなった。従業員に給料を払えなくなってきた。

私の県の元新聞販売店主の自殺もその頃です。経済紙の本社のトイレでの自殺も2018年。経済紙ですからチラシが一般紙より大分少ない。関東圏でも販売店経営は厳しかったのでしょう。

せめて押し紙が無ければギリギリ生きて行ける。そう思うと本社への恨みはね、何というか命がけで晴らしたい。私もそう思うかも知れんですね。

こんなに新聞が減っても本社は経営が維持できるのか。それが出来るのですよ、本社は多くの不動産を所持していますから。

私の父が経営していた店も本社が所有しています。2店ともです。47都道府県に多くの店舗を所有している。これを売買したり賃貸に回せば、新聞なんて発行しなくても生きて行ける。不動産屋として生きて行けるのです。

でも、新聞は発行し続けると私は思います。本社の目的は反日運動だったりしますので。

戦時中は戦争を煽っていた。それは在日民族が日本を利用して発展する為。しかし、戦争で敗れた。祖国は南北に分断された。日本の敗戦の責任を祖国が受けた。

日本が憎い。戦争に負けた日本が憎い。そんな感じで反日運動は続けていく。祖国の繁栄の為に。

もう日本を貶める記事ばっかり書いている。これは祖国や社会主義国、共産主義国から広告代として資金が出ているからだと思う。

この新聞だけではない。地方紙を含め、大半の新聞社は反日。テレビも反日。スポンサーとなっている国の真実は歪めて報道する。或いは完全に無視する。日本をスポンサーになっている国に支配させる為に。

それを知らずに必死で新聞配達していた私。馬鹿でした。何だったんだ、私の人生は。

急にこの記事を書こうと思ったのは、父の葬儀でこれ見よがしに新聞社の社旗を掲げていたからです。父の遺言だったそうです。

私は葬儀に出るつもりはなかったのですが、精神病用語で「親殺し」と言うのですが、ケジメをつける為に出るべきだと思った。そこで社旗を見た。

こんなものの為に苦しい想いをした。父の仕事を手伝った従兄は死に繋がった。仕事を手伝った伯父は豊田商事に転職し、兄弟に1億円の損失を出させた。娘の自殺に繋がった部分もある。

他にも従兄が仕事を手伝って肩の骨を折る大怪我をした。私の一生続く怪我での掌の痛みも新聞販売業をしていたからだ。

事故死した従兄の弟たちも葬儀に来ていた。豊田商事に騙された親族も肩の骨を折った従兄弟の兄妹も来ていた。

この社旗を見てどう思ったか。そんな事も父は分からないのか。私の妹弟は分からないのか。

私は父親への想いは浄化したと思った。しかし、この社旗を見て怒りが沸騰した。父の遺体に社旗を突き刺してやろうか。ちょっとだけそう思った。昔の辛い想い出が呼び起された。

亡くなっても私を父は苦しめるのか。これが人殺しの家系か。最期までそうなのか。

私の鬱は催眠術で私の記憶を消して貰わない限り治りそうにない。取りあえず、死んだら完全に縁を切りたい。その為には私の墓をどう造るかだ。誰にも影響を受けない私だけの墓を。

外国の思想や宗教に影響されない日本人本来の墓で眠りたい。私に合った墓を造りたい。

その為にこれからの人生は動きたいと思う。死んでからは苦しみたくないし、悔やみたくないので。


ではでは。










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新聞販売店ほど辛くてバカバカしい商売は無い。その7

2022年06月18日 00時56分09秒 | 出版・テレビ・CM・ドラマ・映画
続きます。

廃業届は一応慰留されました。そりゃそうです。担当員の実績に反映されますから。

長年、本社の意向に従順に従ってきた。まだまだやれるの急に廃業届を提出した。担当員も驚いたでしょう。

担当員は中々了承しなかったが、両親の決意は固かった。私も後を継がない。儲からなくなってきた。頑張っても店は狭められる。馬鹿馬鹿しい。この辺が辞め時。正しい判断だったと思います。

担当員は仕方なく渋々廃業を認めた。だが、とんでもない要求を言い出した。

私の店は県内の販売店の中でも成功者の部類に入る。財産として不動産をそれなりに残した。本社もそれを把握している。

それで担当者は言った。「新聞販売業で不動産を残したのだから、その不動産を売って新聞を増やして本社に恩を返して辞めなさいよ」と。

30年以上前の話だが、本社の社員は30歳で年収1200万円に到達する。とんでもない高給取りである。

その給与の何分の1かは押し紙と言う架空の売上で成立している。要らない新聞を販売店に押し付けて得られているのだ。

それなのに不動産を売って新聞を増やして恩を返せだと。どの口が言えるのだ。この反日詐欺新聞社の木っ端社員が。

私がそう言われたらどうするか。

会長は担当員を半殺しにしても辞めさせられたが、犯罪には問われなかった。辞めたいのはこっちだ。私も担当員に飛び掛かって半殺しにしてやろうか。

ってな事は思わないが、「担当員さんも退職時に退職金を辞退し、今まで貰った給料を本社に返しますか?」とは言うだろうな。

担当員は続けて「辞めるのなら最後に一花咲かせて辞めましょうよ」とまで言った。

私の母親は「花が咲いたら、またそれを刈り取りたくなりますので、花を咲かせずに辞めます」と言い返した。担当員は返答出来なかったそうだ。

仮に私が店を継いでいたらどうなったか。そりゃ大失敗して大損となります。

事実、私の家の店を引き継いだ方は東京の方でしたが、「前の経営者は大成功して辞めた店だよ」と本社に言われたみたいです。

ホクホク顔で私の親から仕事を引き継いたが、たった2年で廃業です。準備金1500万円を全て投入して。

騙されたと私の親を恨んでいたそうです。そんなの筋違いですよ。恨むなら本社と見当違いしていた自分を恨むべきです。

多分、夕刊が無いから仕事が楽だと思っていたのでしょうが、チラシ代が東京の3分の1以下なのですから、東京の新聞販売店みたいに自分は働かず、店を管理しているだけで儲けなんか出る訳無い。商売を甘く見るな。

更には私同様、新聞屋の息子で親から店を引き継いだ販売店主が、本社からクビを言い渡されて廃業。その後自殺しています。

彼の家は元々地主です。そして彼は目が悪く運転免許も持っていなかった。自分では配達も出来ない。だから金が掛かる経営をしていた。

それなら辞めれば良いだろうと思うが、経営者と言う肩書を失うのが惜しかったのだと思う。無理して続けていた。親の金を次ぎ込んで。

しかし、それも限界になった。目が悪いのに新聞販売店経営は無理だ。

彼は50歳を過ぎている。それなのに若い担当員に頭を小突かれたりしていたそうだ。それに耐えていたが新聞を増やす資金が枯渇した。金の切れ目が縁の切れ目。本社に廃業を突き付けられた。

長年、親が新聞販売業で稼いだ金を仕事に投入して全て失くした。そして自殺。

私も店を継いでいたら彼みたいになった可能性がある。本当に気の毒。私は新聞屋なんて継がなくて本当に良かった。


続く。



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新聞販売店ほど辛くてバカバカしい商売は無い。その6

2022年06月17日 11時22分44秒 | 出版・テレビ・CM・ドラマ・映画
続きです。

本社は新聞販売店主の事など奴隷としか思っていません。そして担当員は新聞販売店主を洗脳する教育を受けていると私は考えています。

担当員の本社から出る交際費は月100万円です。今は分かりませんが当時は100万円でした。その100万円で豪華ホテルに泊まり飲食をするのです。

私の家では担当員が来た場合、出来るだけ販売ノルマを上げて貰いたくないので5000円の鰻重を昼飯に出していましたが、どの販売店も無理をして担当員に対し殿様対応しています。それで調子に乗ってしまう馬鹿担当員も多いです。

さて、私は新聞販売業に見切りを付けました。新聞を増やして店を大きくしても販売区域を狭められる。新聞を増やせば増やすほど赤字になる。そして押し紙を大量に捨てる罪悪感。そして空しさ、やるせなさ。

押し紙はタダではないのです。売れてもいないのに販売店が買わせられるのです。こんな理不尽な事ありますか。

「新聞はインテリが書いてヤクザが配達する」と言われていますが、私から言わせると本社なんてのは日本の隣国、或いはとっかの共産主義国、社会主義国だと思いますね。

まっ、そう言う事で私は後を継がないと決心し東京に出た。

新聞販売店は常時人手不足。私が居なければ商売も厳しい。それで父も決意しました。新聞販売店の廃業を。

担当員が来店。来月、再来月のノルマを言い渡される。出来ますかと聞かれる。分かりましたと答える。

「では3か月後のノルマの数字は?」と聞く担当員。

「それはこれです」と言いながら父は廃業届を担当員に提出しました。

これには担当員も驚いたそうです。父は当時55歳。まだまだやれる歳です。

でも、私の父は仕事なんて殆どしていません。配達は多少していましたが、日中はパチンコ屋に入り浸り。私がいなくなって商売もままならなかったのでしょう。

本人は辞めたくなかったはずです。新聞販売店主、新聞販売店経営と言う肩書を捨てたくは無かったと思います。私の犠牲の上で商売が成り立っていたとは思ってもいなかったでしょうし。


続く。


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新聞販売店ほど辛くてバカバカしい商売は無い。その5

2022年06月16日 11時27分11秒 | 出版・テレビ・CM・ドラマ・映画
続きです。

父が新聞販売業を営む切欠の話をします。

父は中学卒業後、陸上自衛隊に入隊。宮城県の多賀城基地、北海道の旭川基地で10年間過ごしました。

その頃、父の兄がいわき市の霊場・閼伽井嶽、水石山で林業をしていたが、新聞販売業に転職した。儲かるとなって弟の父に勧めた。そしていわき市の炭鉱町で新聞販売業を開業した。

最初は儲かっていた。いわき市は炭鉱で潤っていた街。炭鉱の仕事はきついけど高給が得られる。情報源は新聞しかない。住民は皆、新聞を購読していた。

しかし開業から数年後、炭鉱は閉山。住民は一気に減った。新聞が売れなくなった。それで仙台へ移転を決意した。

最初は仙台の中心部で店を持った。2年間そこで務めた。

そこに「是非、店を代ってくれないか」との話があった。仙台の老舗の新聞屋からだ。その息子がその場所で新聞屋をしたいと言う。

交換の店は仙台の初期のベッドタウンに有った。当時は空き地だらけ。

しかし、50数年前でも仙台の中心街はドーナッツ現象が始まっていた。現在の様な高層マンションなど無い。住民が減っていた。チラシも入らない。それで移転を決意した。

最初の頃は人が住んでいないので苦労したが、段々と人口が増えてきた。新聞販売業で成功する唯一の方法は人口が増える町で商売をする事。父の判断は正しかった。

因みに最初の店は東北一の繁華街に隣接している。老舗新聞販売店の息子は親の遺産4億円を手にして放漫経営をしていた。自分では働かず毎夜飲みに通った。そして15年で4億円を使い切り、新聞販売店経営を本社から切られた。

4億円と言ったら大金です。50数年前の4億円ですからね、現在だと20億円位でしょうか。不動産賃貸業で回せば50億円位になったかも知れません。それを15年で失くした。店は本社所有だったが、出て行かず裁判で争った。週刊誌にも3週に渡って特集記事となった。

まっ、儲からない店を15年経営した顛末と言う事です。仙台の新聞販売店は人口増加が見込める町で自分でしっかり働かねばダメって事です。東京とは違うのです。

新たな町での経営は最初は上手く行きましたが、ベッドタウンは更に郊外に広がります。新聞部数は頭打ちになってきた。しかも区域内には大学がある。夏休み、冬休みには新聞が止まる。残紙が1日500部以上出る。

それプラス、販売区域を狭まれた。店員に店を出させたのだが、その店員の店に販売区域を削ぎ取られた。

本社は販売店主の増加を進めていた。新聞を増やすには店を細かくして経営を困難にする必要がある。経営が困難になれば新聞を増やす為に店主が頑張るしかない。

本社はそう考えたのだと思う。


続く。





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新聞販売店ほど辛くてバカバカしい商売は無い。その4

2022年06月15日 15時49分06秒 | 出版・テレビ・CM・ドラマ・映画
続きです。

私の父親は私に新聞販売店の跡継ぎをして貰いたかったのは間違いないです。私を東京の新聞販売店に修行に行かせようとしていましたから。

実はチョットばかり修行に行ったのです。そして直ぐ帰ってきました。こりゃ駄目だと思って。

私の店では新聞1部に当たり月に1000円のチラシ代が入ります。3000部配っていたら月に300万円が入るのです。この300万円があるから何とか運営が出来るのです。

でも東京の店では1部当たり3000~4000円。3000部配っていたとしたら900万~1200万円です。これだけのチラシ代が入るから夕刊も配達できる。

仙台で夕刊配ったら大赤字になる。仙台には地元の有力紙があるから部数は伸びない。仙台での新聞販売業は先が見えている。

否、それだけではない。私は証券会社に勤めた時、衝撃的な物を見た。クイックだ。

クイックは昔のブラウン管ワープロ同様でカラーの画面ではない。しかし、それで株の売買注文が出来る。1日の情報が流れてくる。こんなのが家庭に普及したら、新聞の必要性は無いではないか。

まっ、今日のパソコンやスマホを見れば私の予想に狂いは無かった。

そう言いながら株の業界紙に入社したのは、クイックな情報が命の株式なので脱新聞が最初に進むと考えていたからだ。

それに私が入社した平成2年はボーナスが12カ月出ていた。それにも惹かれた。基本給10万円に対しての12カ月だとは思わなかったが。

それプラス株式上場していなかった。上場したら初値が幾らになるか分からない。昔のサンリオみたいに社員全員が億万長者になる可能性だってある。サンリオは20歳の社員でさえ億の資産を得たと言う。私もそうなるかも知れない。

それなのにだ。それなのに私が入社した株の業界紙は新社屋の建設を予定していた。馬鹿だと思った。私は既に新聞の時代は終わると確信していたのに、馬鹿社長は建設費だけで56億円の社屋を建てた。

私が入社した時、ABC発行部数は16万部だった。旧社屋ではどんなに頑張っても1日20万部しか刷れない。これはマズイと思い建設を進めていたのだ。

そして2年後、発行部数は5万部程度となっていた。私が入社して2年で11万部も減った。それなのに新社屋は完成間近。12か月のボーナスが出ると思っていたのに、新社屋を建てるからとの理由で一律10万円に落とされた。騙された。

私が入社した時、会社の資産は200億円と経営陣は語っていた。事実、旧社屋は1等地に約80坪の面積がある。坪1億円で東京証券取引所が買いたいと言ってきたが、馬鹿社長は坪1億5000万円じゃないと売らないと寝言を語って断った。

バブル崩壊が鮮明になっているのに欲を張ってしまった。株の次は必ず不動産が下がる。こんな事も分からない馬鹿社長なのだ。

私は2年で辞めたが、その数年後に会社更生法適用。200億円の資産は全てパー。

会社は買い取られたが、パート含めて230名の社員は解雇の嵐。そして新聞はネットだけの配信となった。私の予想通りになった。


続く。

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