続きです。
父が新聞販売業を営む切欠の話をします。
父は中学卒業後、陸上自衛隊に入隊。宮城県の多賀城基地、北海道の旭川基地で10年間過ごしました。
その頃、父の兄がいわき市の霊場・閼伽井嶽、水石山で林業をしていたが、新聞販売業に転職した。儲かるとなって弟の父に勧めた。そしていわき市の炭鉱町で新聞販売業を開業した。
最初は儲かっていた。いわき市は炭鉱で潤っていた街。炭鉱の仕事はきついけど高給が得られる。情報源は新聞しかない。住民は皆、新聞を購読していた。
しかし開業から数年後、炭鉱は閉山。住民は一気に減った。新聞が売れなくなった。それで仙台へ移転を決意した。
最初は仙台の中心部で店を持った。2年間そこで務めた。
そこに「是非、店を代ってくれないか」との話があった。仙台の老舗の新聞屋からだ。その息子がその場所で新聞屋をしたいと言う。
交換の店は仙台の初期のベッドタウンに有った。当時は空き地だらけ。
しかし、50数年前でも仙台の中心街はドーナッツ現象が始まっていた。現在の様な高層マンションなど無い。住民が減っていた。チラシも入らない。それで移転を決意した。
最初の頃は人が住んでいないので苦労したが、段々と人口が増えてきた。新聞販売業で成功する唯一の方法は人口が増える町で商売をする事。父の判断は正しかった。
因みに最初の店は東北一の繁華街に隣接している。老舗新聞販売店の息子は親の遺産4億円を手にして放漫経営をしていた。自分では働かず毎夜飲みに通った。そして15年で4億円を使い切り、新聞販売店経営を本社から切られた。
4億円と言ったら大金です。50数年前の4億円ですからね、現在だと20億円位でしょうか。不動産賃貸業で回せば50億円位になったかも知れません。それを15年で失くした。店は本社所有だったが、出て行かず裁判で争った。週刊誌にも3週に渡って特集記事となった。
まっ、儲からない店を15年経営した顛末と言う事です。仙台の新聞販売店は人口増加が見込める町で自分でしっかり働かねばダメって事です。東京とは違うのです。
新たな町での経営は最初は上手く行きましたが、ベッドタウンは更に郊外に広がります。新聞部数は頭打ちになってきた。しかも区域内には大学がある。夏休み、冬休みには新聞が止まる。残紙が1日500部以上出る。
それプラス、販売区域を狭まれた。店員に店を出させたのだが、その店員の店に販売区域を削ぎ取られた。
本社は販売店主の増加を進めていた。新聞を増やすには店を細かくして経営を困難にする必要がある。経営が困難になれば新聞を増やす為に店主が頑張るしかない。
本社はそう考えたのだと思う。
続く。