ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「ぼくんち」 西原理恵子

2006-06-27 09:36:57 | 

まだバブル景気を迎える前、昭和50年代には東京ですら、貧民街としかいいようのない地域はあった。私が高校卒業までを過ごした街にも、そんな一角があった。

四畳半と台所だけの一室に、家族5人で暮らしていたり、アパートの脇の階段の下に板壁を立てて、居候している人とかが、逞しく暮らしていた。貧しいけれど、小ぎれいな街でした。なにせゴミを出す余裕すらなかったしね。

正直言えば、同情したり憐れむことはなかった。むしろ、当然というか無理もないとさえ思っていた。だって、馬鹿なんだもん。そりゃ、運、不運はあるでしょう。でも同じ失敗を繰り返していれば、窮するのは当然のこと。今も昔も、ギャンブルで身を持ち崩す馬鹿は絶える事はない。

私は子供の頃から、けっこう小遣い稼ぎをしていたので、稼ぐには頭が必要だと知っていた。騙す奴はどこでも居るし、騙されないよう努力する必要があることもわかっていた。そりゃ騙す奴は悪い。でも、単純に騙される奴も悪い、そう思っていた。

馬鹿だから貧乏、これが哀しくも冷酷な現実。貧乏人はいい人が多い?そりゃ、助け合わなければ生きていけないだけ。実際は、こすっからい人が多かった。強いものにはおもねり、弱いものには偉ぶる人も多かった。

同情はしない、でも・・・ある種の哀しさは否定できない。よく一緒に遊んだのは、いいとこの坊ちゃん連中よりも、彼等貧乏人の子供たちだった。子供心にも、彼らと一緒に遊べるのも今のうちだけかもしれないと、心の片隅で感じていた。彼らが貧乏から抜け出すのは、並大抵のことではない。

多くの場合、彼等貧乏人の子供たちは、親と同じ道を辿る。いや、結果的にそうなっている。なぜだか私も分からない。知っているのは、彼らがおそろしく頑固で、頑迷で、それゆえ生活を変えることが出来ないこと。

実のところ、我が家も貧しかった。父母の離婚の後、小学校の用務員をしながら私たち3人兄妹を育ててくれた母は、一応地方公務員だったから、生活は安定していた。でも余裕はほとんどなかった。私と上の妹は、中卒で働くつもりだった。多分、私は職人の道に入っていたと思う。そのはずだった。

ところが離別した父が、海外から帰国して結構な大金を用意してくれ、大学まで援助してくれることとなったので、私はなんとか貧乏な世界から抜け出せた。その代償として、幼馴染たちとは縁遠くなってしまった。

表題の著者、西原理恵子も又貧乏な世界を知っている。彼女の描く明るい貧乏な世界。明るいけれど、哀しい世界。逞しいけれど、救われない世界。安易な同情も、表面的な憐れみも受け付けない世界。救いようがないけれど、無視することも出来ない世界。正義や倫理では救われない世界。そして、もしかしたら、私も暮らしていたかもしれない世界。

多分、人間が人間である限り、このような社会はなくなることはないのだと思う。

コメント
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