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ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

オリンピック誘致の失敗に思うこと

2009-10-20 17:03:00 | 社会・政治・一般
私はリーダーシップに乏しい。

これは認めざる得ない私の欠点でもある。全体を俯瞰して状況を見定めたり、適切な行動指針を導き出すことなら出来る。しかし、周囲の人間の関心を自分に集中させて、それを一つの方向に振り向ける才に欠ける。

簡単に言えば、リーダーシップに欠ける。ぶっちゃけ、盛り上げるのが下手だ。これでは人はついてこない。

大変に興味深いことに、リーダーシップは学校教育では身につかない。いくら学校の成績が良くても、リーダーとはなれない。おそらくは生得の才能なのだと思う。

落ちこぼれだった中学時代はともかく、成績優秀であった高校の時は、学級委員(たしか生徒委員とか称した)をやっている。別に立候補したわけでもなく、推薦で押し付けられたのが実態だ。

一応、クラスのまとめ役なのだろうが、実際は違う。文化祭などでクラス行事をやる際、私は自分から仕切るようなことは避けた。クラスのなかで数人、いくつかのグループで中心的存在となっている奴らとの意見調整役に徹した。

彼らさえ協力してくれれば、なんとかまとまって行動できることを知っていたし、彼らからの協力を得られなければ、まず失敗することも分っていたからだ。だから根回しをすることが必要だった。

本来のリーダーの役割とは違うことは承知していたが、目的を果たすには、これしかなかった。私には本来のリーダーシップがないことは既に分っていたからだ。

私のような生得のリーダーシップに欠ける人間が、リーダー役を全うするには、内部統制が或る程度固まっている組織の中で肩書きを得るしかないと思う。限定されたリーダー役ならば、私でもなんとかなるはずだ。

そこで石原慎太郎である。この人が自民党の政治家だった頃から感じていたが、この人もリーダーシップに欠ける人だと思う。部下を擁することは出来ても、同志を集めて動かすことは下手糞だ。

頭は良いと思う。作家としての才能もある。ただ、人を動かすのが下手だ。だから政治家としては大成しなかった。いくら正論を叫んでも、人の輪の中心に祭り上げられることはなかった。

その限界に気づいたからこその東京都知事への転進であったと思う。地方自治とはいえ、行政職のトップに立つことで、自らのリーダーシップの欠如を補おうとしたのだと私は理解している。

既に都知事として長期政権を続けているが、私の目には失政続きである。複式簿記の導入など革新的な功績も残しているが、銀行税の挫折や新銀行東京の事実上の破綻、築地市場の移転問題そしてオリンピック誘致の失敗などマイナスの功績が目立つ。

全ての失敗が石原都知事のせいだとは言わないが、石原都知事がリーダーシップを取りたがることが失敗の遠因になっているのは否定しがたい。はっきり言えば、でしゃばり過ぎ。おまけにプライドが高いので、自らの失政を認めない。だから反省もしない。

たかだか地方自治体の長に過ぎないのだから、その分に応じたことをしっかりやるべきだ。東京は首都ではあるが、都知事は日本の代表ではない。

多分、勘違いしていると思う。だからこそ、石原のオリンピックは支持されなかったんだよ。政治から手を引いて、しっかりと行政の効率的運用に励みなされ。そっちのほうが向いていると思うゾ。
コメント (2)
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