犯人が誰かはすぐに分かる。
分かるけれど、その動機が分からない。分からないことだらけで延々と7百頁を読まされる。これが京極堂の世界である。
通勤電車が読書の時間となっている私にとって天敵に近い存在が、まさに京極堂に他ならない。まず本が重すぎる、おかげで手首が鍛えられる気がする。鞄がいつもよりも重くなるので、この夏の暑さが殊更堪えたのは間違いない。
おまけにこの本にかかりっきりであったので、この二週間ばかりブログの記事が映画と漫画に偏ってしまった。
正直言って京極堂のミステリーは、無理に読むような本ではない。ミステリーとしては過剰に饒舌に過ぎる。背景があまりに理屈っぽく、如何に論理が透徹していようと現実離れしている感が否めない。
だが、それでも私が読んでしまうのは、従来のミステリーにはない、まったく新しい視点からの切り込みに惹かれるからだ。今回、京極堂のまな板に据えられた食材は儒教である。
日本人にとって、儒教ほど分かりにくい宗教はないと思う。そもそも日本における儒教は本来的な意味での宗教ではない。むしろ教養あるいは知的鍛錬のための知識体系に過ぎないとさえ私は思っていた。
その認識の甘さを京極堂に引き裂かれてしまった。江戸初期における林羅山の深謀と仏教界の受容なんて視点は、私にはまったくなかった。死、あるいは鬼神に対する理解は、私の想像を絶していた。
ただ、今回で確信したのだが、京極堂のシリーズは日本でしか受け入れられないと思う。日本人の曖昧な歴史認識、宗教認識、文化認識を改める上でこそ、読む価値のあるミステリー、それが京極堂シリーズだと思います。