ヌマンタの書斎

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オバマ大統領の広島訪問に思うこと

2016-05-12 12:56:00 | 社会・政治・一般

ヒロシマ、ナガサキは免罪符ではないし、踏絵でもない。

先月のことだが、各国の首相、大統領などがハプニング的にヒロシマの被爆地の原爆ドームを訪れたことがあった。これは予想外のことであったようで、警護のSPは大変だったらしい、各国の指導者が原爆ドームを訪れたと、マスコミは大騒ぎであった。

その流れを受けてだが、サミットで来日するアメリカのオバマ大統領が広島を訪れるかもしれないと、これまたマスコミは大騒ぎである。アメリカ国内での反対もあり、いささか流動的ではあるが、どうやら広島訪問は決まったらしい。

私は原爆被災者を悼む気持ちは持っているし、原爆の恐ろしさ、それを後世に伝えることの意義を軽視しているつもりはない。

だが、原爆を落とした国であるアメリカ大統領をヒロシマへと訪問させることへの違和感を禁じ得ないのだ。まず、間違ってもオバマ大統領は謝罪なんてしないし、それを期待する人がいるとしたら、勘違いが甚だしい。

アメリカにとっては、広島、長崎への原爆投下は戦争終結のために必要な行為であった。それが結論であり、原爆投下の被害が如何に凄惨なものであろうと、その決断を過ちと認める気はまったくない。

さらに付け加えるならば、20世紀は戦争と革命の時代であった。世界大戦が二度で済んだのは、核兵器の戦争抑止力によるところが大きい。核兵器が如何に残酷で、無慈悲で、非道な兵器だとしても、戦争を抑止できた功績は銘記されるべきである。

ところが、我が日本に於いては、原爆の被害者的な意識が強すぎる。原爆が恐ろしい兵器であることを、後世に伝えることの意義は、私とて認めている。しかし、原爆被害者との意識が強すぎることは、むしろ平和を守るための見識を狽、には問題があると思う。

そもそも、戦争を被害者、加害者という視点で語ること自体、問題がある。なぜなら、戦争とは、自らが正しいと確信している者同士の争いが、武力闘争に発展したもので、勝った者が正しいと規定されてしまうものである。

原爆の被害が、想像を絶した残虐なものであるがゆえに、被害者意識が湧きあがるのは理解できる。しかし、その残虐さゆえに、核抑止力という新たな概念が生まれ、第三次世界大戦を防ぐ役割を果たしたことも、歴史上の事実だと思う。

戦争は嫌だと思う気持ちは自然なものだ。だが、人間とは矛盾をはらんだ生き物であり、問題解決には戦うしかないと確信できるからこそ、この世に戦争がなくなることはない。小さな小競り合いはあれども、欧米の自由主義陣営と、ロシアら社会主義陣営との第三次世界大戦を回避できたのは、核兵器あればこそである。

人類史上、唯一、核兵器の攻撃を受けた日本が、その恐ろしさ、残酷さを後世に伝えることには意義があると私は思います。でも、その意識に囚われ過ぎると、本当に大切な平和を守るために何をすべきなのかが、お座なりにされてしまうと思うのです。

オバマ大統領が広島の地を訪れることに意味はないとは言いません。でも、それで非核化が世界に広まるなぞと幻想は抱かずにいて欲しいものです。

コメント (4)
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