活字中毒である私が、新聞などマスコミへの不信感を覚えたのは、小学校6年の時だと思う。
当時、毛沢東の死後、権力を握った四人組の一人、江青女史が来日して、彼女を讃美する報道一色で埋まった紙面を読んで驚いた。水滸伝や三国志演義など過去の遺物を葬り去ると、誇らしげに語る江青と、それを褒め称える朝日新聞記者の記事に呆れてしまった。
なんだよ、焚書坑儒の再来じゃないか・・・と。
それを言論を守る尖兵であるはずの新聞記者が、褒め称えているのだから、子供ながらに違和感を感じた。ただ、我が家は代々、朝日新聞の愛読者であり、当時住んでいた公務員住宅は当然のように教職員組合の方が多く、私は左派寄りの言論に囲まれて育った。
だかこそ言いたい。
表題の書の著者は、NHK出身であり、調査報道こそが新聞・テレビへの信頼回復の基礎であると力説する。民主主義社会において、マスコミが果たす役割の重要さを懇々と説く熱意は買う。
また私が日頃から批判している記者クラブについても、その有用性を認めた上での、適切な活用の重要性もよく理解できた。報道の素人である私にも、良く分かる説明である。
しかしながら、まだまだマスコミに対する甘い姿勢が見て取れる。
民主主義社会のおけるマスコミの役割は、権力の監視であると考えるのは良い。しかし、その権力があまりに与党・自由民主党に偏り過ぎだ。万年野党であった旧・日本社会党や日本共産党はもとより、現行の民進党、社民党に対して甘すぎる。
だから、自社さきがけ連立政権や、民主党政権が成立し、いざ与党の座に就くと、出るわ出るは不祥事の嵐であった。秘書給与疑惑や、不公正な経理処理など、あまりに杜撰な万年野党議員たちのだらしなさは、当人らの責任もあるが、それを見て見ぬふりをしてきたマスコミの責任が大きい。
だから、彼ら万年野党議員は、自民党を非難することには慣れていても、自分が非難される立場になると、あたふたして無様な対応に終始する。常にマスコミの監視に曝されてきた自民党の議員とは雲泥の差である。マスコミは彼ら、野党議員を甘やかし過ぎである。
また権力の監視役を気取るあまりに、自然と反自民党、反米となり、自分が左派の立場に陥っている現実が見えていない。だから、必然的に親・旧ソ連であり、親・共産シナとなっている。誰しもそうなのだが、マスコミは自らを客観視することが苦手だ。
だから、その報道に偏りがあることを自覚出来ない。その結果、大企業の不正は追及するが、労働組合の不正は見て見ぬふりをすることが常習化してきた。弱者の味方をすることに価値を見出す一方で、弱者の狡猾さを報じることをサボってきた。
表題の書が、調査報道の意義や価値に重点を置くのは分かる。また、発表報道に偏りがちな記者クラブの弊害と、その効用に関する記述は一読に値する。しかしながら、マスコミ自身の偏向ぶりに対する認識が欠落している。
私もそうなのだが、やはり自分自身を客観視することは難しいのだと痛感した一書でした。この調子では、新聞やテレビに対する信頼は、ますます低下してくでしょうね。