旧・優生保護法の元で行われた過去の不妊手術が今、問題となっている。
私はそれほど詳しくはないが、時々いわゆる知恵おくれの人を見かけるので、いろいろ思うところはある。私が使う通勤路線には、おそらくそのような知恵おくれの方の通う施設があるのだろう。
だから、朝の通勤時間や昼時に、時たまみかける。母親や父親に手を引かれているお子さん(ただし、中年だと思う)もいれば、一人で施設に通っていると思われる方もいる。
見かけるだけなので、よく知っている訳ではない。ただ、概ね大人しい人が多く、奇声を上げても、優しく注意すればすぐに大人しくなる。私自身、注意をしたことがあるので、彼らが大人しいことは知っている。
ただ、それでも複雑な気持ちになる。ときたま見かける親御さんたいは、既に高齢といってよく、彼らが亡くなった後はどうするのだろうと、ついつい要らぬ心配をしてしまう。
今朝方、私の隣に座ったのは、大柄で坊主頭の中年男性だが、間違いなく知恵おくれの方だ。ラフな服装と、背中に背負ったバッグは大人の服装としては違和感があるし、なによりも無意識に見せる笑顔にこそ、普通でないことが分かってしまう。
決して悪い人ではない。列を守り、順番を守り、大人しく席に座っている。どこへ行くのかは知らないが、どこへ行っても彼がいささか知的反応が遅いことは一目瞭然であろう。
彼が知的障害者としては比較的知能が高いらしいことは、一人で行動していることから分かる。でも、健常者の平均以下であろうことも分かってしまう。不思議なのだが、自然と分かってしまうから恐ろしい。
かつて行われていた優生保護法による不妊手術が、選民思想や弱者排除の論理につながる差別的なものであることは確かだと思う。今、その不正を追及しているようなのだが、私は素直に賛意を示せないでいる。
生まれついての知的障害は、その本人には咎はない。
でも、大人になっても一人で生きていくのが難しい人たちでもある。社会の保護が必要である。大家族が普通であった時代ならば、家族で養うことが出来ただろう。しかし、核家族化が進み、高齢化社会と、少子化の到来がこの問題を難しくさせている。
人間は社会という集団生活を営む生物である。社会的弱者を集団で守る行動をとれる知恵のある生き物でもある。だからこそ、今も障害者を社会の一員として受け入れられる。
だが、その中身はどうであろうか。
私は知っている。知的障害者が必ずしもその受け入れ施設を好まないことを。人目につかぬ社会の片隅で、誰かに匿われて、ひっそりと生きている知的障害者は少なからずいる。
正直言って、安くてキツイ労働環境に置かれていることが多く、人権的にどうかと思うことはある。でも、そんなキツイ環境でも、施設にいるよりも楽しいと聞かされたことがある。嘘ではないだろう。
かつては、多くの時代、多くの場所で、生まれつきの障害者は出産と同時に処理されていたと聞く。そのほうが幸せなのだとの社会的合意があったからこそ、許された非業の処理だと思う。
旧・優生保護法のもとでの非道な不妊手術に怒るのは良い。でも、本当に考えるべきは、今を生きる障害者たちをどう社会で受け入れていくかではないかと思う。
少子化と高齢化は、確実に人手不足を招き、障害者たちの受け皿を難しくさせる。過去を糺すだけでなく、未来をどうするのか、それこそが真に議論すべきことではないかと思います。
少なくとも、麻生大臣の罷免を求めて、国会審議を拒否している場合ではない。立法府で仕事しているのならば、さぼってないで仕事しろ!