何をやっても良いとされると、案外人は戸惑うものだ。
遊びにしたって、何をやっても良いとされると、かえって何をしたらイイか分らなくなる。自由に好き勝手することは、案外不自由さを感じることが多い。
だからこそルールなどの制約を自主的に設けると、むしろ遊びの楽しさが深まることがある。制約があるからこそ、その制約のなかで最大限知恵を絞る楽しみが生まれる。
本来、山登りにはルールはない。あるとしたら、生きて帰ることだと思う。でも、それでは面白くない。だから、様々な制約を自主的に設けた。自分の足で登るのもその一つだ。ただし、海外でのトレッキングなどで、馬やラバを用いるケースもある。でも、ヘリコプターで登頂したって、それは登山じゃないと思う。
やはり、自分の力で登ってこそ、登山の価値が見出せるってもんだ。しかし、人間の欲には限りが無い。ただ単に登るだけでは、満足しきれなくなった。そこで山頂へのルートをわざわざ難しくすることに価値を見出した。危険を承知で、意図的に登攀が困難なルートを経て登ることに、高い価値観を認めるようになった。
わざわざ岩壁を登攀して頂上を目指すだけではない。危険の増す厳冬期に登ることすら挑戦するようになった。ヒマヤラにもアンデスにも出向いて、未踏の山を探し出し、初登頂を競い、それが済むとコースの難易度を競った。ほぼ、70年代には、地球上の全ての山が、登山家の欲望に屈した。
このあたりから、登頂を目的としない登山が徐々に楽しまれるようになった。それがクライミング=岩壁登攀だ。頂上を目指すのではなく、難しい岩壁を登ることに主眼を置いた。山でなくともいい。海岸の岩壁でもいいし、高原の岩肌を登るのもいい。極端な場合、川原の巨石を登るだけのクライミングも楽しまれた。
しかし、どんな急傾斜の岩壁だって、ドリルで穴を開けてボルトを打ち込み、それに梯子をかければ必ず登れる。これじゃあ、面白くない。しかも、これって自然破壊じゃないのか?
自然破壊、反対。岩を傷つけずにクライミングを楽しもう。そう叫びだしたのがアメリカのロイヤル・ロビンスやイヴォン・シュイナード等だった。一方、所詮クライミングなんて遊びさ、と嘯きドリルを片手に、登りたいところを登るのが本能ってもんさと反論したのが表題の著者だ。
ロビンスらの主張をクリーン・クライミングと言う。当初は、環境保護運動も相乗りして、クリーン・クライミングが優勢に思われた。しかし、自然に運動は衰退した。何故かと言うと、全ての岩場でのクリーン・クライミングは不可能だったからだ。
岩壁にクラック(割れ目)や、がっちりした角があればクリーン・クライミングは問題なく出来る。クラックにハーケンを打ち込むより、ロビンスらが開発したナッツなどを引っ懸ける方が楽だし、速い。
しかし、どの岩場にもクラックがあるわけではない。安全性を確保するためには、岩に穴を穿ちボルトを打ち込む必要がある場合も多い。ごく一部の岩場でしか実現不可能なクリーン・クライミングは一時のブームで終わった。
当初は胡散臭く思えた著者の言うように、やはりクライミングも遊び。あまりに厳しすぎる制約は、かえって面白さを損ねる。ちなみに、このクリーン・クライミングの思想は、手足の力だけで登るフリー・クライミングへと引き継がれ、やがて室内に人工の岸壁を設定して登るインドア・クライミングへと昇華した。
インドアならば、たしかに自然破壊にはならない。でもね、私としては、太陽の日を浴びて、鳥が囀り虫が飛び交う自然のなかでのクライミングがいいなあ~。このほうが、遊びとしては自然だと思う。やっぱり無理な制約は、却って面白くない。その意味で、著者ハーディングの主張を首肯したいと思います。
遊びにしたって、何をやっても良いとされると、かえって何をしたらイイか分らなくなる。自由に好き勝手することは、案外不自由さを感じることが多い。
だからこそルールなどの制約を自主的に設けると、むしろ遊びの楽しさが深まることがある。制約があるからこそ、その制約のなかで最大限知恵を絞る楽しみが生まれる。
本来、山登りにはルールはない。あるとしたら、生きて帰ることだと思う。でも、それでは面白くない。だから、様々な制約を自主的に設けた。自分の足で登るのもその一つだ。ただし、海外でのトレッキングなどで、馬やラバを用いるケースもある。でも、ヘリコプターで登頂したって、それは登山じゃないと思う。
やはり、自分の力で登ってこそ、登山の価値が見出せるってもんだ。しかし、人間の欲には限りが無い。ただ単に登るだけでは、満足しきれなくなった。そこで山頂へのルートをわざわざ難しくすることに価値を見出した。危険を承知で、意図的に登攀が困難なルートを経て登ることに、高い価値観を認めるようになった。
わざわざ岩壁を登攀して頂上を目指すだけではない。危険の増す厳冬期に登ることすら挑戦するようになった。ヒマヤラにもアンデスにも出向いて、未踏の山を探し出し、初登頂を競い、それが済むとコースの難易度を競った。ほぼ、70年代には、地球上の全ての山が、登山家の欲望に屈した。
このあたりから、登頂を目的としない登山が徐々に楽しまれるようになった。それがクライミング=岩壁登攀だ。頂上を目指すのではなく、難しい岩壁を登ることに主眼を置いた。山でなくともいい。海岸の岩壁でもいいし、高原の岩肌を登るのもいい。極端な場合、川原の巨石を登るだけのクライミングも楽しまれた。
しかし、どんな急傾斜の岩壁だって、ドリルで穴を開けてボルトを打ち込み、それに梯子をかければ必ず登れる。これじゃあ、面白くない。しかも、これって自然破壊じゃないのか?
自然破壊、反対。岩を傷つけずにクライミングを楽しもう。そう叫びだしたのがアメリカのロイヤル・ロビンスやイヴォン・シュイナード等だった。一方、所詮クライミングなんて遊びさ、と嘯きドリルを片手に、登りたいところを登るのが本能ってもんさと反論したのが表題の著者だ。
ロビンスらの主張をクリーン・クライミングと言う。当初は、環境保護運動も相乗りして、クリーン・クライミングが優勢に思われた。しかし、自然に運動は衰退した。何故かと言うと、全ての岩場でのクリーン・クライミングは不可能だったからだ。
岩壁にクラック(割れ目)や、がっちりした角があればクリーン・クライミングは問題なく出来る。クラックにハーケンを打ち込むより、ロビンスらが開発したナッツなどを引っ懸ける方が楽だし、速い。
しかし、どの岩場にもクラックがあるわけではない。安全性を確保するためには、岩に穴を穿ちボルトを打ち込む必要がある場合も多い。ごく一部の岩場でしか実現不可能なクリーン・クライミングは一時のブームで終わった。
当初は胡散臭く思えた著者の言うように、やはりクライミングも遊び。あまりに厳しすぎる制約は、かえって面白さを損ねる。ちなみに、このクリーン・クライミングの思想は、手足の力だけで登るフリー・クライミングへと引き継がれ、やがて室内に人工の岸壁を設定して登るインドア・クライミングへと昇華した。
インドアならば、たしかに自然破壊にはならない。でもね、私としては、太陽の日を浴びて、鳥が囀り虫が飛び交う自然のなかでのクライミングがいいなあ~。このほうが、遊びとしては自然だと思う。やっぱり無理な制約は、却って面白くない。その意味で、著者ハーディングの主張を首肯したいと思います。
環境破壊と言われたら、人間生きているだけで環境破壊でしょう。
いざというときに対処できる知識・体力・技術は必要だけど、先鋭的な登山家目指しているわけじゃなし、のんびり楽しんじゃあいけないんですかね。普通の登山でもそう思うことがあります。