二十歳の頃、私は登山に夢中だった。
生涯かける価値のある趣味だと思っていた。まさか数年後にその夢を奪われるだなんて考えてもいなかった。難病がこれほど恨めしいものだと知りもしなかった。
白状すると、衰弱して長く病に伏せていても、再び山に登り出すことを諦めるのは難しかった。完全に断念したのは、社会復帰を果たしてからだ。当時は絶対に弱音を吐いてたまるかと依怙地になっていた。
でも苦しかった。歩く速度が明らかに遅い。走るなんて以ての外であり、ふらつく身体を必死の思いで支えていた。走るのが嫌いだった私は、走ることに恋い焦がれるなんて思いもしなかった。
諦めざるを得なかった。私の身体の衰弱は、日常生活を普通に送ることさえ困難なものである現実が、私の心を打ちのめした。それでも、まだ自分に出来ることはある。せっかく苦労して身に付けた資格を活かして生きていくことに集中するしかなかった。
だから、自分の部屋の本棚を埋め尽くしていた本を、皆段ボールに詰めて押し入れの奥に仕舞い込んだ。年末に大掃除をした時、その段ボールを見つけた。もう、いらないものばかりなので、捨てる積りだが、古本屋に売れるものもあるので、時間をかけて選別している。
その中に大学ノートがあった。なにかと思い、開いてみると自宅での病気療養中に図書館で調べて、身体が元気になったら登りたい山のリストアップと下準備が記載されていた。
オレ、こんな事していたのかといささか呆れた。同時によく忘れたものだと自分の能天気さに感心した。当時はインターネットなんざないので、調べものがあれば図書館に行くか、神田の古本屋の店主たちに訊ねるかしていた。
そのなかに、世界一危険な山と私が書き込んだページがあった。読みながら、我ながら良く調べたものだと感心した。多分、毎日寝てばかりの鬱屈した気持ちを晴らすためにやっていたのだと思う。
エベレストより難しいと言われるアンナプルナ山とか、非情の山K2、ネパールの恐怖ジャヌーなんかを調べている。はて?寒いのが嫌いで、冬山登山を嫌がる私がなんで、これらの高所登山の難関ばかり調べていたのだろうか。当時の自分の心境が分からない。
ページをめくっていくうちに目についたのがレーニア山。これは覚えている。セント・ヘレナ山に連なるカスケード山脈の最高峰4392メートルの成層火山である。
アメリカは西海岸ワシントン州にある山だ。全米屈指の難峰として知られている。メモ書きに死者800人超とある。そうそう、この山は遭難者が多いのでも有名だったはず。たしか当時、谷川岳よりも死者数が多いと知って驚いた記憶がある。
もう30年近く前のことだから確認しようと思ってネットであれこれ検索したら驚いた。レーニア山に対する否定的な情報がほとんどない。はて?30年前に調べたあの数百人の遭難者は、いったい何だったのだ?
推測だけどけっこう観光を売りにしているので、遭難死者数などの否定的なデーターは隠しているのだろうか。でもアメリカはそのような情報操作はしないと思う。多分、30年前の私の調べがおかしいのだと思う。
ただ、このレーニア山が難易度の高い山であるのは確かだ。なんといっても体力が必要な山で、私が調べたところ体力が充実している時にこそ登るべき山だと書かれていた。特にリバティリッジと呼ばれる山稜は、氷結と強風で遭難が多発するのは確かなようだ。特に大雪が降った時は、進も退くも困難となる難易度の高い山として警告されている。
私のノートには、航空料金やら登山ガイドやらの料金を書いたりしてある。当時の私はけっこう真剣にこの山を登ることを検討していたらしい。そこまで執着しているとは思わなかった。あの頃の私は、こんなことを調べることで、病苦から逃れようとしていたのだと推測できる。
ちなみに2020年現在、世界で最も遭難死者数の多い山は、日本の谷川岳である。
ただ、この情報は補足が必要だ。谷川岳は夏の時期に稜線を登るだけならばハイキングコースである。ただし、日本海から太平洋側に風が通り抜けるルートにあたるため強風には覚悟が必要だ。
また世界屈指の豪雪地帯であり、谷川岳周辺では積雪5メートル以上は珍しくない。冬山登山の対象としては、体力面も含めてかなり難易度が高いのは確かだ。あの細い稜線上で、吹雪によるホワイトアウトなんぞに遭遇したら恐怖で動けなくなること請け合いである。
でも谷川岳を世界一の遭難死者数で有名にしたのは、普通の登山者ではない。谷川岳南面の一ノ倉沢を中心にした岩稜地帯に挑むクライマーたちが、遭難者の大半を占める。
この一ノ倉は、登りがいのある岩壁である。多分、日本国内では最大の岩壁だと思う。もちろん穂高周辺や、剣岳周辺の岩場も大きいが、一ノ倉ほど危険ではない。
私も森政弘氏の登攀教室に参加して何度か登っているが、あの迫力には身震いする。一ノ倉が人気の理由の一つは、アプローチが容易だからだ。岩壁下部まで車で行ける。駐車場で車を降りて、見上げた一ノ倉の岩壁の凄味は、観た人にしか伝わらない思う。下部まではスニーカーでも行けるので、観光がてらに観に来ると良い。首が痛くなるほど、見上げてしまう迫力は国内屈指の眺望だと思う。
もっともそれは夏のシーズンだけ。豪雪地帯で強風が吹き荒れる冬の一ノ倉は、死の関門でもある。太陽の輝きを受けて白く輝く一ノ倉岩壁は神々しいほどに美しい。でも、その美しさは死の恐浮ワとっている。
この岩壁に挑み、命を散らしたクライマーは現時点で800人を超える。文字通り死の岩壁である。登攀をやらない人からすると、なぜにそんな愚かしいことをするのかと思う。
でもあの恐ろしい岩壁に挑み、乗り越える悦楽はこの世のいかなる娯楽をも超越した至福の心境をもたらす。死を身近なものに感じるとき、人は生きていることを実感する。死があるからこそ、生きる喜びが貴重なものに思える。
ただ幸か不幸か、かつては真冬でも登山者があふれるほど活況を呈した一ノ倉岩壁も、今ではかなり人が減っている。また技術というか登攀用具の進歩も著しく、以前よりは安全に登れるようになったとも聞いている。
それでも、あの豪雪と強風の恐怖が減った訳ではない。標高2千メートルに満たない谷川岳ではあるが、危険性は今でも世界トップクラスの岩壁を擁する。まだまだ当分は世界一の危険な山との看板は下ろせないと思います。
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