ヌマンタの書斎

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地図は怖い

2017-06-16 13:20:00 | 旅行

前にも書いたが、私は本好きであるだけでなく、地図好きでもある。

ただ、地図は怖いとも思っている。といっても、オカルト系の話ではない。むしろ、お化けなんぞよりも、もっと怖い話を知っているからだ。

1970年代は、学生運動の盛んな時代であった。でも、全ての学生がそうだったわけもなく、大学受験という牢獄から解放された喜びから、見聞を広めようと、世界に飛び出す若者も多かった。

ジャーナリスト志望のAさんもその一人で、バイトを頑張って資金を貯め込むため、学生運動には参加しなかった。そして、折り畳みの出来る自転車を相棒に、世界各地のユースホステルを巡り、自転車旅行で世界を駆け巡った。

私も当時の写真を見せてもらったことがあるが、アメリカ、ヨーロッパ、南米と4年間で世界各地を駆け巡ったそのヴァイタリティには驚かされたものだ。

Aさんは大学4年の秋、かねてから希望していた東欧を自転車で回った。ビザの関係で、なかなか難しかったらしいが、当時ある国での学生大会に参加するのを理由にビザ申請をして認められたとのこと。

当時は、まだまだ社会主義が輝きをもっていた時代だけに、Aさんは未来の日本の理想を夢見て向かったのだが、結果は失望に近かった。確かに共産党の指導のもと、平等な社会があるように思えた。

しかし、気が付くと生活物資が足りない。西欧はもちろん、日本でも当たり前のように入手できる日常用品が容易に手に入らない。ユースホステルで知り合った、日本人のBさんも同様で、あるものが手に入らず困っていた。

Bさんは山岳部出身の冒険家志望の青年であった。ヨーロッパ各地の山を登り、金がなくなるとレストランなどでバイトして稼ぎ、登山を繰り返していたらしい。そして、かねてより狙っていた東欧の山々を登る絶好の機会として、今回の学生大会に参加した。

そのBさんが探していたのは山の地図であった。本屋に行けばあるだろうと軽く考えていたら、まず本屋がない。日本に当たり前にある駅前の本屋がない。あっても、地図が売ってない。困り果てていたところ、地図を扱っている本屋があると聞き込み、この町へやってきたとのこと。

その話を聞いたAさんも、地図の入手には難儀していたので、Bさんの悩みに大いに同感したそうだ。Aさんには、サイクリングに同行している北欧の友人がいて、彼のつてで地図をどこからか入手していた。

その話を聞いたBさんが、自分にも地図を回して欲しいと、その北欧の方に頼んだ。最初は気軽に、OKと返事したのだが、欲しい地図の場所を聞くと、表情を曇らせ、そこはダメだと英語で断わってきた。

その地域には、軍の基地があるから、一般には入手できないと説明してきた。ジャーナリスト志望のAさんは、それを聞いて納得したが、登山への情熱に囚われたBさんは、どうにも納得できなかったようだ。

翌日、Bさんは街の図書館を求めて外出したのだが、その日は帰って来なかった。次の目的地に向かう予定があったAさんは、伝言を残してそのユースホステルを立ち去った。

今回の旅でヨーロッパの大半を自転車で廻ったAさんは、意気揚々と帰国し、その後は某通信社に務め、幾つかの国に駐在した後に、ヴェトナムで赤痢にやられて帰国。

あまり日本国内では見られない熱帯性の赤痢であったようで、長期間の療養生活を止む無くされた。その際、かねてから気になっていた、あの失踪したBさんの消息を尋ねたところ、とんでもないことが分かった。

東欧の某国で行方不明となったBさんは、数年後東アジアで偶然発見された。しかも、重度の麻薬中毒患者としてだ。AさんとBさんは大学こそ違ったが、郷里は同じであった。そこで共通の友人と共々、Bさんを帰国させることに協力することになった。

病気療養で休業中ではあったが、務めている通信社のつてで、Bさんが保護されているキリスト教の救護施設に連絡をとり、また現地の日本大使館の協力を得て、紛失したらしいパスポートの再交付や、ビザなどの手続きをすませた。

ただ、けっこう費用がかかり、またある理由から飛行機での帰国は無理で、貨物船に同乗させてもらっての帰国となった。実はBさん、身体がかなり不自由になっていた。

日本大使館付きの医師の診断では、全身に骨折の跡が十数か所。それも満足に治療された様子がなく、指などは不自然に曲がったまま。また歯の大半が、紛失しており、無理やり抜かれた可能性があること。要するに、拷問を受けた可能性が高いらしい。しかも、数年たっている。

自分一人では、満足に動けないBさんが、何故に数千キロ離れた東アジアの、それも阿片窟のような場所に居たのかも分からない。本人も、まともな意識を保てないほどの重度の精神疾患である。

発見されたのも偶然に近く、日本の演歌がラジオから流れている時に、普段感情を見せないBさんが涙を流した。それを見た救護院のスタッフが日本に滞在経験があったことが幸いした。

もしかしたら日本人ではないかと疑いを持ったことが契機で、呼ばれた日本人のNGOスタッフが、必死でコミュニケーションをとり、その名前を本人の手書きの文字で確認できたらからこその発見であった。

Aさんや、Bさんの友人たちの協力がなかったら、日本に帰国するための手続きは、まずとれなかったろう。このようなケースでは、日本大使館はあまり積極的に助けてくれないからだ。

その帰国の船旅も終盤のことであった。遠州灘から駿河湾に至る航路の最中、富士山の姿を見たBさんは、大声で泣き、その場から動かなくなってしまった。事情を知っていた船員さんたちも、無理ないと思い、その場にそっと置いておいた。

日が沈み、富士山の姿が見えなくなるまでBさんは、その場を動かなかったそうだ。日も暮れて、寒くなってきたので心配してデッキに出てみると、Bさんの姿はなかった。忽然と消えてしまった。

大騒ぎになり、船内をくまなく捜索したが、Bさんの姿はみつからず。そうなると海に落ちた、あるいは身を投げたとした考えられない。海上保安庁にも連絡をとり、数日間捜索したのだが、結局発見することは出来なかった。

結局、彼の僅かな遺品だけが、日本の土を踏んだ形となり、関係者を大いに失望させた。

この話を語ってくれたAさんとは、私が二十代の時に長期入院した病院で知り合った。病棟は違ったのだが、よく談話室で出会う方であったので、知己になった。

Aさんは、あの時、Bさんに軍事基地のある場所へ近づかないよう、強く警告しなかったことが俺の痛恨のミスだ、と言っていた。おそらく、Bさんはスパイとして捕まってしまったのだろう。まだベルリンの壁が厳然とそそり立つ時代であり、水と平和はタダの日本の常識は通用しないのが、世界の現実であった。

なんとしても、真相を突き止めたいが、俺も家族持ち。無理は出来ないだよなァとAさんは寂しげにつぶやいていたのが記憶に残る。ベルリンの壁が崩壊したのは、その数年後であった。

たかが地図ではある。でも、日本ぐらいですよ、地図に軍隊の基地が平然と記載されている国なんて。日本の常識は、世界では通用しないことが少なくない。そのことが、幸せなことなのか、どうか、私は未だ判じかねます。

この話、関係者が未だ生存している為、かなりのフェイク入ってますので、ご了承のほどをお願いします。


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3 コメント

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Unknown (青蛙堂)
2017-06-16 14:09:53
軍事施設がある地域で写真を撮ったり、スケッチしたりは禁物ですし、地図の販売が制限されていて、外国人の購入がチェックされる事のあるのは、冷戦下の時代のバックパッカーには常識でしたね。
地図と似ているのが薬品。
インドや東南アジアや、中央アジア、中東では
薬局で大量の抗生物質を買うと、警察を呼ばれる時があります。反政府組織に流れるのを恐れて監視下に置いてるからです。武力衝突した時に、怪我人の手当てに必要なものですから。
反政府組織が武装闘争している途上国では珍しくない事です。
地図にせよ抗生物質にせよ、日本人は自分や家族や生活が暴力で脅かされる事が極端に少ないですね。それ故に危険に対するセンサーが鈍になってませんかね。
冷たい言い方ですが、センサーが鈍い人は外国に出鰍ッたり、山に登ったりするべきではなく、そういう人が非業の最後を遂げるのは仕方ないと思います。
ヌマンタさんの記事とほぼ同時期には、有名な女流作家が東欧で行方不明になったままです。
Bさんにしても鉄のカーテンの向うを旅する以上は、それなりの覚悟と注意があるべきで、
北欧の方に「軍事施設がある」獅mらされた時に手を引くべきでした。私は同情をしませんね。
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Unknown (青蛙堂)
2017-06-17 02:09:32
私が中東やアジア放浪した時の事です。仲良くなったストリンガー(一匹狼の戦場ジャーナリスト)から、
「ホテルの部屋の予約は二階から三階にしろ。ダメで一階に泊まる時は、ロビーから離れた部屋にしろ。階段室の吹きぬけからは距離を取れ!
部屋が非常階段と階段室の中間にあれば、さらに良い!」と習いました。
理由は、テロリストが突入する時は一階のロビーを真っ先に制圧するからで、制圧後に彼らは階段室から上階に上がるからです。吹きぬけの階段室に近い部屋を取ると、人質にされる可能性が高いからです。
抗生物質の件も、実は百戦練磨のカメラマンに教えて貰った事です。他のヌマンタさんの読者の方が読めば、私を軽蔑するのでしょう。
でもね、ヌマンタさん程の山経験は俺はないけとま、ジャーナリストから当地のチンピラやオカマ、ハードな旅をしてきたバックパッカー……指導して頂いた事は沢山あります!
彼らは自国と当事国のルールや文化の違いに慌てながらも、実戦的なノウハウを持っていた!
Bさんは他国を嘗めていたと私は思う。
私も893のフロント企業のサラリーマンとして、
シナ、盗難アジアに派遣されました。そこでは日本の常識は通用しなかった!
死人に鞭を打つけど、その悲惨な最後のB氏は甘えてますね。自分の登山の熱意が他国人に理解されると思ってる。甘い!!
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Unknown (ヌマンタ)
2017-06-19 13:09:41
青蛙堂さん、こんにちは。60年代、70年代前半までは、東側諸国は理想郷的な報道をされていました。それを信じて、不幸のどん底に堕ちった無邪気な日本人は数知れずです。
ただ、私が十代の頃には、既に実態が漏れていたはずですが、マスコミはあまり報じたがりませんでした。
この記事の元となった人物Aさんに迷惑がかかるといけないので、かなりフェイク入れてます。ただ、Bさんのモデルは実在しているようです。私は会っていませんが、決して海外旅行の素人ではなかったのです。でも、どこかで甘い部分があったのでしょう。
おそらく氷山の一角だと思います。似たような話は、けっこうあるようですから。
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