ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

パンク

2010-09-22 12:04:00 | 日記
悪いことは重なるらしい。

先週の三連休のことだ。ギラン・バレー症候群で既に半年あまり寝たきりの状態が続く母が転院したので、その病院にいってみた。近場の病院が理想だったのだが、小泉改革以来長期のリハビリ入院が出来なくなったため、うちの母のような長期のリハビリを必要とする患者を受け入れてくれる病院は少ない。

もしかしたら遠く県外の病院への転院も覚悟していたのだが、ギリギリで東京郊外、青梅のリハビリ病院に移ることが出来た。一応、東京都内なのだが、奥多摩が近く丘というよりも山の中に建てられた病院となってしまった。

連休初日の中央高速は、呆れたことに40キロを超す大渋滞。ウンザリして途中で高速を降りてしまい、一般道を走ったため2時間半かかる始末だ。ちなみに圏央道と中央高速を使って普通に走れば1時間半であることが翌日分った。

まだ落ち着かぬらしい母を見舞い、その帰り道のことであった。広く走りやすい日野バイパスを快適に走る。いつもよりも車は多いが、高速の渋滞より遥かにマシだ。

BGMにソニー・ロリンズを聞きながら気持ちよくドライブしていると、いきなり左側からガリガリッと金属音が炸裂した。目を向けると、白い乗用車が私の車に当たりながら、左側を追い越していく。止まる気配は全くない。

怒声とともに追いかけようとするが、前を走る車は、もみじマークに車椅子のシールまで貼った小型車で、制限速度でゆったり走っている。左に移ろうにも既に他の車が塞いでおり、ご丁寧に窓から子供が手を振っている。これじゃ抜けない。

そうこうしているうちに、件の白い乗用車は、相変わらず乱暴な運転で次々と車線を変えつつ、先を急いでいる。おかげで抗議のクラクションが鳴り響いている。かろうじてナンバーが90-00だと読めたが、他が読みきれなかった。どうも見慣れぬ地名だったので、他県からの車だと思われる。

信号が少ないバイバスであることが裏目に出て、ついに見失ってしまった。残念、無念である。信号で止まったところで、車を降りて左側の被害状況を見ると、なぜか車体には傷はなく、変りにタイヤのホイールが傷だらけだ。どうやら、タイヤとタイヤが接触したらしい。

この道は走りやすく、そのせいでスピード違反が好物のパンダが頻繁に出没するのだが、こんな時に限って見当たらない。ちなみにパンダとはパトカーの隠語で、当然駐車違反が好物のコパンダはミニパトだ。

それはともかくもその後、交番で警官に相談するが、下四桁のナンバーでは捜索は難しく、被害も僅少なので警官もあまり本気になってくれず、体よくあしらわれる。まあ、仕方ないと諦める。

で、その翌日のことだ。連休中日だが、特に用事も予定もないので再び母を見舞う。その帰り道の高速道路の出口がえらく混んでいた。なかなか一般道に出られない。出口あたりでバイクの接触事故があり、その実況検分で渋滞が起っていた。

事故現場で警官の指示に従い、大きく迂回すると歩道に乗り上げた。ゆっくり乗り上げたつもりだが、妙な感触が気になる。その5分後のことだ。甲州街道を走っていると、車内に妙な異音が聞こえてきた。ハンドルもすこし動きがおかしい。

パンクか?

信号で止まっている時に、急いで確認してみると左後輪が見事にパンクしている。幸い近くにホンダ・ディーラーがあったので、そこに飛び込み修理を依頼する。ちなみに私、ホンダ以外の車を買った事がない。

そこで改めてタイヤを見てみると、サイド・ウォールの亀裂が見事に裂けている。どうやら、昨日の接触時に亀裂が入っていたらしい。そこに今日、歩道に乗り上げた際に力がかかり、亀裂が裂けたらしい。

結局修理ではなく、タイヤを交換する羽目に陥った。悔しいのでこの機にエコ・タイヤにしてやった。燃費のびるかな?それはともかくも、まさか7年目でタイヤを交換することになるとは思わなかった。

実は今年、車検前に買い換える気持ちがあったのだが、今回のタイヤ交換で気持ちが変った。後2年は乗ってやる。まあ、未だ走行距離は2万キロ余りと、たいして走っていない車なので、まだまだ十分走れる。

暇があればハンドルを握っていた20代の頃と異なり、現在は週末ドライバーに堕している。だから走行距離が短いのだが、その分事故や故障もなかっただけに、ちょっとショックである。

昨日の事故の時にタイヤの亀裂に気がついていれば良かったのだが、既に一日たっており、接触事故との関連性は不透明だ。保険を使うほどのものでもないが、それでもやはり腹が立つ。

こうなりゃ、あの白い車もパンクしろと呪うしかない。神様、仏様、おたぬき様、どうかあの車も不幸にあっていますように!ついでに貧乏神様にもご活躍願いたいものです。
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砂の薔薇 新谷かおる

2010-09-21 12:39:00 | 
先週、取り上げた「戦争サービス業 ロルフ・エッセラー」は、もしかしたら今年一番の衝撃作だったかもしれない。

いくつか思うことはあったのですが、いささか私が勉強不足なので、もう少し関連する書籍を読んでから、改めて再読するつもりです。

実を言えば、読んだ当初、私の脳裏に浮かんだのが表題の漫画でした。CATと称される半官半民の対テロ軍事サービスを行う組織で活躍する日本人女性隊長を主人公とした作品です。

テロにより夫と息子を奪われた主人公が女性兵士を率いてテロ組織と戦うもので、読んだ時は女性兵士だけの民間軍事組織なんてと、軽い違和感を覚えたものです。

ところが現実は小説より奇なり。民間軍事組織は既に活躍しており、この漫画で描かれていたことは既に実現しているのです。重く扱いづらい火器も、現在では軽量化が進み筋力の弱い女性でも十分実戦投入は可能ですが、むしろ女性であることを利用してのテロ対策も、おそらくは実施されているのでしょう。

アメリカ軍をはじめ欧米の軍隊が女性を登用し、日本の自衛隊でさえ女性兵士を活用する時代ですが、単純な戦闘力では男性に劣らざる得ない。しかし、都市で暗躍するテロリスト対策には、むしろ平服の下に武器を隠せる女性のほうが向いているのかもしれません。

事実、諜報の分野では女性の諜報員は冷戦時代から大いに活躍していました。つい最近もアメリカでロシア人セレブ美人スパイが摘発されたばかりです。情報戦の比重が大きいテロリスト対策では、油断を誘いやすい女性兵士を活用する手法はおそらくは有効なのでしょう。

この作品が連載されていたのは、1989年からですから、著者の慧眼には恐れ入ります。さすが松本零士の弟子といったところです。

残念ながら掲載誌が、また当時人気薄だったヤング・アニマルであったので、あまり知られた作品ではありません。単行本も古本屋か漫画喫茶でなければ手に入らないと思います。機会がありましたらどうぞ。
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敗戦国の現実

2010-09-17 12:30:00 | 社会・政治・一般
今年の夏休みは、7年ぶりで沖縄を訪れた。台風一過の晴天であり、楽しいバカンスであった。

ただ、その帰り道に、ちと不快な出来事に遭遇した。レンタカーを返却して那覇空港へ送ってもらうバスのなかでのことであった。

バスの運転手を務める男性が、再開発が進められている那覇市外の状況を面白おかしく話してくれた。ここまではいい。バスが次第に空港に近づくと、港近くに広大な空き地が見えてきた。

バスの運転手は、いかにも苦々しげに「この空き地は、米軍が荷物の集積所として活用していて、ヴェトナム戦争の時はいつもコンテナで一杯でした。でも、現在は使われておらず、この広大な敷地が無駄となっています。返して欲しいものですねぇ」と嘆く。

港の反対側は、再開発事業で大きな民間施設が建設中であり、そのことを誇らしげに説明した上で、いかにも米軍基地のがら空きの集積所を恨めしそうに眺めながら「本土の人たちには、このことを分って欲しいものです」とため息混じりで嘆いてみせた。

バカンスの帰路であり、連れと軽い喧嘩状態であったので、ここでバスの運ちゃんと議論するような愚かしい真似こそしなかったが、正直こんな低レベルな話は聞きたくなかった。

そもそも軍事施設とは緊急時のための施設であり、平時に無駄に思えるのは危機意識のなさでしかない。軍を適切に運用するためには、兵站物資の適切な配分が大切であり、広大な敷地が用意されているのは、むしろ兵站を重要視している証に過ぎない。

これは沖縄の人に限らないが、相変わらず日本人は軍事音痴だ。太平洋戦争中に兵站を軽視したために、多くの日本人兵士が医薬品、食料品不足から病死、餓死に追いやられたことを反省する気はないようだ。

本気で第二次世界大戦の反省をするのなら、自らの失態から死に追いやられた自国の兵士を悼み、同じ過ちはしないと反省するのが筋だと私は思う。シナやコリアに謝罪するよりも、愚かな指導者のために苦しんだ自国の国民(兵士も平民も)にこそ謝罪し、反省すべきだと思う。

ところが、未だに多くの日本人は兵站の重要性を分っていない。だいたい自衛隊なんざ、常備された弾薬は数日分しかなく、緊急時には米軍から支給されることを前提としている有様だ。要するに2、3日しか戦えない軍隊なのだ。これが反省の成果なのか?

話を沖縄に戻すと、沖縄にある米軍基地は日本を守るためにあるわけではない。沖縄の置かれた地理上の位置が、軍事上極めて有益であるからこそ配置されてある。ただ、それでも間接的には日本の国防に寄与している。

現在、日本列島に配置された米軍基地は、アメリカ国外における最大の軍事拠点だ。東南アジアだけでなく、遠く中東、中央アジアまで睨んだ世界戦略の拠点でもある。

アメリカにとっては激戦を戦い抜いて勝ち取った権利であり、半世紀が過ぎようと、これほど有利な拠点を手放す理由はない。敗戦国である日本の政権が、自民党であろうと民主党であろうと関係ない。いわんや、地方自治体レベルの選挙なんぞ気にも留めない。これが国際政治の現実だ。

敗戦を終戦と誤魔化し、戦争は悪いことだと決め付けることが反省だと誤魔化してきたツケが、国際政治に対応できない間抜けな国民を育んだ。普天間基地移設問題の迷走こそが、この冷徹で残酷な現実に対する認識が欠如していることを証明している。

これは沖縄の人たちだけでなく、日本全般に言えることだ。いつになったら現実を直視する勇気を持ちえるのか、いささか懐疑的な私です。
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新生、サッカー日本代表

2010-09-16 12:22:00 | スポーツ
顔見世興行か?

今月に入って行われたサッカー日本代表の親善試合のことだ。とりあえず決まったザッケローニ監督の御前試合となったせいか、どうにもこうにも個人プレーが目立った試合だった。

憲剛らが仕切ったパラグアイ戦は、まだ組織的なプレーを心がけていたようだが、グアテマラ戦がいただけない。たしかに若手のハツラツとしたプレーは、見ていて気持ちがいい。随所には光るプレーもあるにはあった。

だが、試合全体を鑑みれば冗長であり、怠惰でさえあった。暑かったせいもあろうが、選手あまり走ってない。省エネ・プレーに徹したと褒めたいよりも、怪我をしないレベルで奮闘しただけだろう。

もちろん、それは対戦相手であるパラグアイ、グアテマラも同じこと。まさに選手にとっては新監督の前でのアピールの場でしかない試合であった。

毎度のことだが、マスコミはこの手のつまらぬ試合を持ち上げる悪癖が抜けない。マスコミが報道すべきは、日本サッカー協会の新監督選びの醜態であり、協会内部の不透明さであろう。

この社会人サッカーOBの親睦団体は、相も変らぬ素人集団であり、そのために世界から舐められっぱなしである。Jリーグ以前のサッカー協会なら親睦中心の仲良しクラブであっても許せた。

しかし、川淵氏の尽力(これは確かだ)によりプロリーグがスタートし、幼い頃からプロのレベルの試合を観て育った子供たちがプロリーグにデビューする時代だ。

日本はようやく、世界の第一線のチームに挑めるだけの資格を手に入れたと私は思っている。ただし、それは選手レベルでの話しだ。コーチ、監督は未だ世界に通用する人材は皆無。

岡田監督は、ようやく世界デビューしたと評していいが、母国の監督だけでは物足りない。他国のクラブ・チームを率いてリーグ優勝できるならともかく、現時点ではその力量は未完成だ。

さらに問題なのは、日本サッカー協会のレベルの低さだ。いまだに学閥、企業閥に支配され、先輩後輩の縦社会のしがらみが色濃く残っている旧態然たる有様だ。

次のアジア杯はどうする気なのだ。優勝を目指すためのスケジュールの調整はしてるのか?現地会場や主要対戦国のデーター集めはどうなった?

私の聞き及ぶ範囲では、中東勢はかなり本気で準備に余念がない。ワールドカップに中東勢は出場できなかった悔しさをバネに奮闘しているらしい。東アジア勢はいつものとおり、あまり力が入っていない。韓国、オーストラリアともに監督を変えたばかりであり、このままでは中東勢の躍進する大会となりかねない。

忘れてしまったかもしれないが、前回のオシム・ジャパンの時はベスト4でサウジに破れている。いい試合だったが、アジアで勝てねば世界は遠いのが現実だ。

バカ・スポーツ新聞はパラグアイにリベンジなどと書いていたが、バカもほどほどにして欲しい。親善試合で、しかもホームで勝ったことを喜ぶな。いや、誤魔化すなと言いたい。

勝って兜の緒を締めよと昔から言うではないか。もういい加減、南ア大会の余韻から醒めて、厳しい現実に立ち返って欲しいものです。
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戦争はなにも生まない!?

2010-09-15 12:29:00 | 社会・政治・一般
戦争はなにも生まない・・・と平和を愛する人は口にする。

本当に?と揶揄したくなる。戦争を全否定している善意の発露であり、命の大切さを重んじる優しい心情でもあることは分っている。

意地の悪い私は、戦争は悲劇を産むよと、チャチャ入れたくなる。死体を大量生産するし、軍需産業は儲かってしかたない。戦争は哀しみと憎悪を産み出し、復讐の怨念が更なる悲劇を拡散させる。

戦争はいろんなものを産みだすぞ。

まあ、意地悪はこのへんにして、冷静に考えてみよう。実のところ、戦争は様々な道具を生み出している。馬に曳かせる戦車の車輪は、人類史に残る発明だ。ほかにも沢山ある。古代から現代に至るまで、人は戦いに勝つため、様々なものを発明してきた。

たとえばコンピューター。これは元々は大砲から発射される砲弾の弾道計算のために作られた。またインターネット通信網がアメリカ軍の通信機能向上のために開発されたことも確かだ。まあ、「平和の配当」とう表現はあまり好きではないが、戦争が生み出したものを抜きにして人間の文明は語れない。

断言しますが、人類の文明の発展は戦争とともにある。

なぜか?

それは人類が適者生存という名の戦いの生き残りであり、勝利者でもあるからだ。

最新の遺伝子工学と、人類学の発達は、人間の進化の道を明らかにしつつある。昔、教科書に書かれていた旧・人類と呼ばれたネアンデルタールから、現世人類であるクロマニヨン人への進化の道は、考えられたよりも遥かに複雑で変化に富んでいることが分ってきた。

現世人類であるクロマニヨンには、いくつもの亜種がいたことが遺伝子工学の発展により分ってきた。我々は亜種人類との戦いの生き残りである。その戦いが如何なるものであったから定かではない。病気により種が衰退したこともあったろうし、戦争により絶滅したこともあったであろう。

その生存競争は、穏やかな話し合いであったわけはない。石器そのものを分析すれば、それは殺傷兵器であり、単に狩猟道具や調理道具であったはずはない。

異なる亜種人類たちの苛烈な戦いの勝者が、我々現世人類なのだ。戦いに勝ち抜き、敗者を絶滅させたからこそ、今日の繁栄はある。その事実を忘れてはならない。

人類の歴史から戦争を無くすことは絶対に出来ないことは明白だ。人が人である限り、戦いはなくならない。いや、人が人であるためにこそ、戦争は必要なのだろう。

戦争は愛する人を奪い、大切なものを破壊する。だからこそ、人を愛し、大切なものを守る意識が育まれる。戦争に勝つことは、新たなる財産(領土、人材、農作物など)を得る機会であることも事実だが、その反面失われるものも多い。

だからこそ、賢い統治者は戦争と平和のバランスを上手にとる。戦争を知ってこそ平和の大切さが分る。戦争を失くす事が出来ないのなら、せめてその戦争を減らす方策を目指すのが賢明ではないか。

麗しき言葉に酔いしれるのではなく、厳しい現実を直視した上で妥協と協調を模索する現実的な平和を求めて欲しいものです。
コメント (2)
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