人口が破滅的に増大した未来の地球。
その解決策として実行されたのが、火星を居住可能な惑星へと改良することだ。そのために、火星に大気をつくり、温める必要があった。そこで導入されたのが、黒色の苔と黒いゴキブリであった。
苔もゴキブリも環境適応力は高く、火星において人類が生息できるようにするための手法として好ましいと思われた。ところが500年後予期せぬ事態が起こっていた。
調査のために火星を訪れた調査隊が、そこで発見したのは進化したゴキブリたちであった。まるでゴリラのような巨躯に、無機質な目線で、ゴキブリがもつ高速移動能力そのもので、いきなり襲いかかってきた。
二次調査隊も全滅こそ免れたが、この進化したゴキブリたちの前に敗退を余儀なくされた。せっかく火星に大気が作られ、温暖化も進んだというのに、人類を目の敵にする進化したゴキブリたちの前に為すすべもない。
それどころか、火星経由と思われる謎の伝染病が地球で流行する始末。きわめて致死性が高く、その対抗薬の開発もままならない。そこで伝染病の原ウィルス入手を目的に計画されたのが、第三次火星調査隊。
こんどは隊員たちに特殊な手術を施して、ゴキブリに負けない戦闘員に仕立て上げた。ところが、いざ火星上空に到達すると、大気圏に入るや否や宇宙船内に進化したっ凶暴なゴキブリたちの侵入を許し、かろうじて軟着陸を果たすが、周囲はゴキブリだらけ。
はたして彼らは任務を果たし、地球へ帰還できるのか。
これが、現在週刊ヤング・ジャンプ誌に連載され、異様な反響を引き起こしている人気漫画の粗筋だ。既に単行本も刊行されており、目にした方もあろうかと思う。
私も毎週、楽しみに読んでいるが、長年SFを読み続けてきたので、いささかの疑問がわき出てくるのを避けられない。そもそもゴキブリをはじめとして昆虫類は、外骨格構造をしている。骨のまわりに筋肉がつく哺乳類などの内骨格とは、根本的に身体の構造が異なる。
そうなると、この火星で突如として現れた二足歩行の内骨格をもつように思われる進化したゴキブリたちは、道理に合わぬ存在だ。作品中でも人類内部における策謀と裏切りの可能性が匂わされている。
想像だけど、この進化したゴキブリたち。おそらくベースは人間で、ゴキブリの特徴を人為的に加えられて進化したのではないか?なぜ、そう思うのかといえば、第三次火星調査隊のメンバーは、戦闘力の高い進化したゴキブリたちに対抗するため、昆虫類の特徴を加味された改造人間たちだからだ。
実際、その戦闘場面をみると、進化したゴキブリたちを一蹴する高い戦闘力を身に付けている。だったら、その逆も可能だろうに。
そんな他愛無い想像を掻き立てられる漫画ゆえに、現在目を離せずにいる作品なのです。いささか残虐な場面も描かれているので万人にお勧めできるものではありませんが、興味がありましたら是非どうぞ。
反日デモは多発するは、日中友好イベントは中止されるは、挙句の果てには日本人が暴行されるケースもある。
不快に思う方もいるだろうし、不安を感じる方も少なくないだろう。ところが私はといえば、不謹慎にも笑いが込み上げてならない。
まずは護憲論者に問いたい。「憲法9条は、尖閣諸島を守ってくれますか?」と。まぁ、分かっているが連中は決して正面から答えようとはするまい。誠意をもって話し合いだとか、有識者による議論だとか、誤魔化しの答弁に逃げるしかあるまい。
そして選挙権を持つ国民に問いたい。「民主党の野田内閣の対応で、尖閣諸島は守れますか?」と。シナ政権が今やっていることは、既成事実を積み上げることだ。漁民を上陸させ、シナの艦船が平然と尖閣周辺海域を航行し、事実上の占有状態を既成事実化させてしまう。
北京政府は分かっている。日本政府が口先だけで、なにも実行しないことを。日本の外務省が陰に日向に北京政府を支援してくれるので、後は反日マスメディアを動かして、日本国民に何もしないことが、日中間の平和を守ることだと脳裏に刷り込ませる。
そうやって、徐々にシナの実行支配を実現する。
出来るはずだ・・・平和痴呆症に罹っているいる日本なんて、なにも出来やしない。
だが、残念ながらシナ帝国の思惑は上手くいかない。何故ならアメリカ軍が、尖閣のシナ支配を認めないからだ。アメリカにとって日本列島南端から沖縄、台湾までのラインは、防衛ラインに他ならない。
だから当初から公式に、尖閣は日米安保の対象だと広言している。
もっともワシントンは、内心では今現在、シナと交戦することは避けたいとも思っている。だから日中間の関係が落ち着くことを遠巻きにして見守っている。日本に対して、いい加減まともな国際常識を持ってほしいと切望している。
ところが民主党政権は、オスプレイ問題のみならず、基地問題でも混乱を招くばかりで、まともな政権ではないとワシントンでは見放している始末。ただ国防省だけは、これ以上シナの太平洋進出を加速させたくない。だから、日本政府を遠巻きながらに応援しているらしい。
狡猾なシナは、アメリカの軍事力には及ばない現実を認識しつつ、平和痴呆症の日本が尖閣を諦めるのを待っている。だからこそ、反日デモを放置し、尖閣海域への艦船航行を増やしている。
私が失笑を禁じ得ないのは、このようなシナの努力は、むしろ逆効果を起こしているが故だ。日本人には、争いを避ける思考法が根強いのは確かだが、反面逆上しやすい危うさも秘めている。
これは海上保安庁のような現場を預かる組織だけでなく、自衛隊、防衛省といった国防組織でさえ対シナ対策の必要性を強く認識した予算案を出してきていることから分かる。
チャイナ・スクールと称される親・北京政府の外務官僚たちが日本の外交を仕切ってきた外務省でさえ、反シナ派が増えつつある。いくら親・北京政府の気風が強い日本のTV、新聞が情報操作しようとも、日本国民の間でシナに対する警戒感が増している。
これまで見て見ぬふりをし、事を荒立てないようにしてきた日本的配慮が、日本の平和を守るのに役に立たない現実がみえてきた。まさに好機である。いい加減、平和憲法なんて幻想に囚われる愚かさを脱却し、軍事的緊張感もまた平和を維持することに貢献する現実を認識してもらいたいもの。
なお、余談だが今回の騒動、背後に北京政府内の権力闘争が生じている可能性があるかもしれないと私は疑っている。次代の指導者とされる習近平の消息が不明なのだ。これは異常事態であることは明白だ。先日ようやく姿を現したとの報道もあったが、今回の尖閣騒動は見事な煙幕となっている可能性は高い。
果たしてどうなることやら。
夜遅くに帰宅して、シャワーを浴びて、ビールを飲みながら着替えていた時だ。ニュース番組のアナウンサーが「原子力発電所の即時停止を求める人の割合が50%を超えました」などと淡々と喋っていた。
んなわきゃ、ないだろう。
ヘンに思って、よくよくニュースを注視していると、パブリック・コメントによる意見聴取の結果だと分かり安堵した。そりゃ、そうだろう。ちなみに広く意見を求め、それを政治に反映させることを目的としているのが、パブリック・コメントという制度だ。
もっとも、現状だとパブリック・コメントは狭く深く濃いものとなっている。つまり自分の意見を正しいと信じているのに、なぜか多数派とならない苛立ちのはけ口がパブリック・コメントに向かわせる。
原発の稼働問題でパブリック・コメントを求めれば、そりゃ原発即時撤廃という正義に燃える反・原発派の方々がこぞって意見を出してくるのは当然であろう。さすがにニュース番組でも、あまりに偏った意見だとの認識はあるようで、その直後に電話による無作為のアンケートによる原発への賛否の数字を出していた。
無作為の電話アンケートでは、原発の即時撤廃は3割に満たず、逆にパブリックコメントでは少数派であった稼働率5%~30%程度が四割強であった。何のことはない、福島原発以前の原子力発電の比率に近い数字だ。
つまり福島原発事故以前の現状維持を望む声が意外に多い。さすがに過半数とまではいかないが、節電を強要されるかもしれない危機感が、放射能に対する危機感を抑えているのではないかと思う。
無理ないと思う。この夏は例年以上の猛暑であり、おまけに雨が少ないので殊更暑さが堪える。クーラーなしで暮らすのは、かなり辛いはずだ。それゆえに、電力が安定供給されるありがたみを感じている人は多いのだと思う。
放射能は浮「。だが、原子力発電により国内の電気需要の3割を賄ってきたがゆえに、現在の原発稼働停止がもたらした電力供給不足に対する不安は大きい。だから、ある程度安全が確保されれば、原発の再稼働もやむなし。そう考える人は、けっこう多いように思う。
ただ、この人たちはパブリック・コメントに意見することもなければ、首相官邸前に集まるようなこともしない。自分の意見を声を荒げて主張するようなことはしない、いわばサイレント・マジョリティなのだ。つまり、声なき多数派。
多数派(マジョリティ)と断言するには、いささか根拠が弱いが、私の実感では相当数に上ると思われる。原発事故に対する不安は持っているが、現在の生活を考えれば、ある程度の原発再稼働は致し方ない。でも、それを口に出すと波風立つから黙っている。
そんなところではないかと思う。
私自身が、日常ではそのような態度をとっている。先だってもある飲み会の席で、一人熱烈な反原発の立場を鮮明にしている方と同席したが、出席者の大半は軽く流して酒の席のたわいない会話として処理してしまった。
はっきり確認したわけでもないが、私も含めて大半がサイレント・マジョリティだったのだろう。
広く意見を聴取して政治に活かす場であるはずのパブリック・コメントだが、現状では熱心だが少数の政治的意見を吸い上げて、ガス抜きする制度に堕しているように思う。
さすがに反・原発に好意的なマスコミでさえ、パブリック・コメントの問題には気が付いているようだ。もっとも、この制度を活用した結果としての過半数が原発ゼロを支持していると結論を下して、原発即時廃止を口にする反・原発論者もいるようだ。
ちょっと困った制度だと思うぞ。断言しますが、国民の過半が即時原発撤廃に賛成はしていないと思いますよ。
人間、そんなに変わりはしない。
青少年の異常な犯罪が起こるたび、新聞などはコンピューターゲームの悪影響を賢しげに解説する。画面上で人の命が簡単に失われ、リセットボタンを押すだけで嫌なことが消せるコンピューターゲームが、青少年の心を蝕んでいくと。
なんとなく納得できてしまうが、私はそこはかとなく違和感を感じていた。コンピューターが登場する以前だって、青少年の猟奇的な異常犯罪はあったし、命が簡単に失われることなんて子供だって知っていた。リセットボタンはなかったけれど、トランプでも双六でも気に入らなければ、机をひっくり返す手はあった。
忘れられているようだが、地球上には生命と死があふれている。私は子供の頃、無造作に芋虫の身体を引き裂き、訳もなく蟻を踏みにじり、生命を簡単に奪い去った。訳もなくと書いたが、実際は面白かったはずだ。さっきまで動いていた虫たちが、自分の手の簡単な動作で死んでしまう。
必死に抵抗しながらも、引き裂かれても逃げようとのたうちながらも、虫たちは生きようと必死だった。それを知りながらも、躊躇いすら感じずに命を奪い去った。おそらく、何十匹、いや、もっと多くの命を私は無造作に奪っている。
そんな私は、猟奇的な異常な人間なのだろうか。
幸いなことに、私にそのような傾向はないらしい。人生を半世紀近く過ごしてきたが、戦場などで人間の命があっさりと奪われることに悦楽を感じることはないし、自分でやりたいとも思わない。
子供の頃は、あれほど簡単に虫たちの命を奪っていたくせにね。そりゃ、虫と人間は違う。違うけれど、命は命。虫だって必死に生きている。それを遊び感覚で奪い去ったことは事実だ。
違いは、どこにあるのだろう。
たぶん、温もりだと思う。虫の死骸には大して感傷を抱くことはなかった。しかし、路上で車に引かれた犬や猫の轢死体となると、そうはいかない。
私は知っていた。犬のむくむくした柔らかさや温もりを。尻尾をふりふり、息ハアハアさせながら、まとわりつくワンコとの楽しい時間を知っていた。だから見知らぬ犬といえども、その死体には無関心ではいられなかった。
だが、白状すると内臓をまき散らして死んだ無残な轢死体に対する気持ち悪さも感じていた。道路に放置したままであることを悼む気持ちはあったが、その気持ち悪さ故に触ることが出来なかったのも確かだ。でも、愛犬だったら、間違いなく抱きしめると思う。やはり温もりを感じるほどに密接な犬や猫とは、心の距離感が違うのだろう。
人間って奴は、社会性の強い生き物だ。家族や友人、近所の人、学校の先生など、様々な人たちとの関係を通じて、子供は社会性を持つ大人へと育っていく。だが、まれに十分な社会性を持てずに育ってしまう場合がある。
家族の愛情欠如が原因であったり、あるいは過剰な愛情が過負荷となって心を歪ませる場合もある。そんな子供たちがしでかしてしまった偶発的な殺人事件。愛する我が子を殺したのが、自分が担任をしているクラスの生徒であることを知った女教師は、そのことを最後の日にクラスの皆の前で告白する。
警察に告発するのではなく、犯人を交えてクラスの皆に分かるように告白した女教師は、何を求め、何を期待したのか。なにも起こらぬ訳がない。そんな衝撃的な告白が引き起こした事件の行方を知りたかったら、この本を読むしかない。一気に読まねば気が済まないほどの傑作です。是非どうぞ。
先月のことだが、大磯ロングビーチに遊びにいった。
その際、TVなどにも時折登場する飛び込み台で遊んだ。もっとも一番高い(10メートル)台は避けて、5メートルの高さの飛び込み台を何度も跳んだ。最初は、ただ一歩前に踏み出して墜ちるだけ。
実はこれが一番痛かった。なにがって、腕の付け根が痛かった。手を中途半端な位置で身体の両端に付けていたのだが、水面に飛び込んだ途端、両腕が水の力で持ち上げられた。水圧の力、恐るべしである。
予期せずに、水中で無理矢理腕を万歳する格好になったので、ビックリした。陸に上がろうとしたら、両腕の肩の付け根が痛い。たかが5メートルの高さでこれである。内心次は10メートルにチャレンジなどと思っていたのだが、さすがに止めた。
そのかわり、5メートルを何度も繰り返し飛び込んだ。助走をつけて、少しジャンプする形で足から飛び込むのが一番楽だった。水面下を潜り込む瞬間の爽快感に酔いしれた。
よく怖がる人がいるが、下を見るから怖くなる。視線を下から真正面に切り替えれば、急降下する風景を楽しめると思うな。子供たちに混じって、十数回飛び込むとさすがに腹が減る。空腹でなければ、もう少し飛び込み続けたと思う。
だって、面白いんだもの。
ところで、この夏「すぎちゃん」とかいうお笑いタレントが、飛び込みで腰椎骨折の大怪我をしたと知り驚いた。顧客のお店の奥で、ワイドショーを見ながら決算の相談をしていたのだが、その事故の詳細を放送していたので、ついつい観てしまった。
私が断念した10メートルの高さからの飛び込みでの事故のようだ。どうも解説していた元・国体の飛び込み選手の話だと、恐怖で上体を曲げた上体で飛び込むと、水面に衝突する圧力が背中の一点に集中してしまい、それが骨折につながるらしい。
CGを使った簡単な解説だったが、飛び込み方を間違えると、身体に相当な衝撃がかかるのは良く分かった。
どうも、この「すぎちゃん」とかいう男性お笑いタレントは、豪快さを売りにした芸人さんらしく、それゆえに10メートルの高さの飛び込みにチャレンジすることになったらしい。
Gジャンを肩口で切り落とした固太りした男性のようだが、たぶん10メートルの高さに恐怖して、上半身が硬直していたのではないかと思う。無意識に体を曲げた状態で水面にぶつかり、その反動で上体に強い力がかかったのだろう。
お客さんと、飛び込みも馬鹿に出来ませんねぇなどと話しながら、内心自分も危なかったかも・・・と思っていた。
私は20代前半の頃、フリークライミングに夢中であった。フリークライミングは何度も墜落することを前提としたスポーツだ。もちろんハーネスを身にまとい、ロープにつながれての墜落だから、衝撃はうまく吸収される。
それでも10メートルを超す墜落は、かなりの衝撃を伴うことは体験的に知っていた。ただ、岩登りの場合、墜落そのものよりも、その際に岩壁にぶつかったりする怪我のほうが多い。墜落そのものの衝撃は、ハーネスとロープが吸収してくれるのだが、墜ちている最中に岩肌に衝突したり、岩角に切られたりする怪我がきつい。
私個人が一番きつかったのは、砂岩の岩肌に擦られるように墜落して、かなりの擦過傷を負い血だらけになった時だ。墜落の衝撃よりも、岩肌に擦られた傷の痛みと、派手な出血には大いに閉口したものだ。
怪我なく上手に墜落するのは、案外と難しい。
そんな経験があるせいか、プールに飛び込むことには、ほとんど危険性を認識していなかった。だから私とて、同じような事故にあっていた可能性はあったのだと痛感した。浮「もの知らずというより、馬鹿に近いとさえ思うぞ。
やっぱり無知は怖いね。10メートルはやめとこうっと。