ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

ビブリア古書堂の事件手帖3 三上延

2014-08-21 09:29:00 | 

別に古本が好きだった訳ではなかった。

世の中には、古本に人の温もりが感じられるとか云う人がいることは知っている。また、本によっては初版とその後の改版により、内容が異なることがあり、それゆえに初版本を求める人もいある。

それは分かるのだが、正直私の理解の範疇を超える。私は本を読みたい、沢山読みたい、出来るなら良い本を読みたい。だから古本屋に通う。ただ、それだけだ。

祖父に連れられて神田(正確には神保町)の古本屋街に行き、古本の世界を知ってから既に40年ほどたつ。私が一月に購入する本は、せいぜい10冊前後だが、そのうち6割近くが古本である。

だが、厳密な意味で私は古本ファンではない。ただ安いから古本を買っているのが実情だ。これは十代の頃から、まったく変わっていない。ただし、それだけではない。

私が足を運んだ古本屋の数は、おそらく50軒をはるかに超えている。閉店した店も多く、現在、私が足を運ぶのは、せいぜい10数軒に過ぎない。

古本屋の店主という人たちは、当然のように本好きであり、しかも病膏肓に入るレベルの本マニアである。神田に限らず、老舗の古本屋には、どこもその本の揃えに癖がある。間違いなく、その癖は店主の嗜好そのものである。

私はこの古本屋の店主たちとの雑談で、いろんな知識を得た。特にベストセラーと云われる本は、古本屋の店頭に並んでこそ、真の価値が分かるとの一説は、私の脳裏に深く刻まれた。

本を読んだ人が、その本を本当に気に入った場合、その本が古本屋の店頭に並ぶことは少ない。逆にどんなに売れたベストセラー本でも、すぐに古本屋の店頭に並ぶ場合、その本の価値は低い。

以来、売れているはずなのに、古本屋の店頭になかなか並ばない本を探すようになった。このやり口、けっこう当たりを引くと思っている。

最近だと表題のシリーズがその典型となっている。一作目を読んで以降、結構気に入って古本屋で捜しているのだが、売れているわりに古本屋の店頭には並ばないので、けっこう苦労している。

正直、読みごたえは軽い。その意味でライトノベルなのだが、その味わいは軽妙にして洒脱であるので十分満足できる。強いて不満を挙げれば、あまりに早く読み終えてしまったので、もう次が読みたいことぐらいだろう。

か~るく読書を楽しみたいなら、最適の一冊でしょうね。

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夏休み

2014-08-18 14:48:00 | 日記

今日から数日、夏休みです。モバイルPCは持参しますが、更新はお休みいたしますので、ご了承のほどを。

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敗戦の日に思うこと

2014-08-15 14:41:00 | 社会・政治・一般

時として、言葉遊びなのかと苛立つことがある。

その典型が、この終戦の日という奴である。戦争は確かにこの日に終わった。だが、勝って終わったのではなく、負けて終わったのだ。終戦の日という言葉には、敗戦の事実から目をそむける卑怯さが感じ取れる。

数百万人の戦死者を出した戦争を、終わった、終わったと安堵するだけでいいのだろうか。良い訳がない。なぜ負けたのか、なぜに負けるような戦いをしたのか、それを真摯に考えることを避けている。

代わって、戦争は悪いことだ、戦争は悲惨だと戦争を否定することで、戦争の反省を誤魔化した。元々敗戦を終戦だと誤魔化した卑屈な精神には、戦争が悪い、戦争をやった軍が悪い、軍を否定すれば平和になるに違いないと思い込むほうが楽だったのだろう。

だが、それは反省ではない。敢えて云えば、戦争を反省しているかのような演技である。「ボク、もう戦争なんてしないよ、褒めて、褒めてぇ」と口にする駄々っ子のようなものだ。

もっと真面目に戦争を考えて、そして負けた戦争を反省して欲しい。

戦争は天災ではない。人が起こすものである。なれば人について謙虚に考察する必要がある。人の歴史のなかで、争いが無くなったことはない。なぜなら争い、すなわち闘争に優れたが故に生存競争を生き延び、地上の至る所で生息したのが人であるからだ。

ライオンの牙もなく、クマのような強靭な腕力もない、個体としては貧弱といっていい人が、地上の弱肉強食の覇者となり得たのは、集団戦に長け、知識と冶術の継承が出来る上に、それを日々進歩させることが可能な知力をもっていたからだ。

夫婦喧嘩をしない夫婦がいないように、如何に信頼と愛情に繋がれていようと争い自体をなくせないのは、人が人であるための要素の一つに闘争力があるからだ。

平和真理教徒が如何に必死で平和を叫ぼうと、戦争はなくならない。軍隊をなくしても戦争は起こるし、武器を禁止しても道具は武器として使われてしまう。争うことを人に止めさせるのは不可能だと、何故に正直に、率直に認めることが出来ないのか。

また日本が20世紀前半において戦争への道を疾駆したのは事実だが、なぜにそうなったかの考察抜きにして、敗戦の反省はありえない。

世界恐慌とその後のブロック経済から締め出されたことが、日本を苦境に追いやり、大陸侵略へと動かしたのは確かだ。当時の日本は大財閥が経済の大半を握り、過度な軍事強化が経済を疲弊させていたのも事実である。

当時の日本は長引く景気低迷に喘いでいた。その一方で財閥や華族などの特権階級の人たちは、相次ぐ合併や買収で肥え太り、貧困に喘ぐ大衆との大きな格差が広がっていた。

あの頃の日本では、姉や妹が人売りに買われていき苦界(売春宿など)で働かされることなんざ、日常茶飯事であった。軍隊の下級兵士たちは、家族がそのように苦しんでいることを知っていた。

だからこそ、強制的な内政改革を求めて2.16事件は起きた。しかし、世間知らずの御坊ちゃまである昭和天皇に大衆の苦悩など分かるはずもなく、単なる反乱分子として処理された。もはや内政改革ではダメだとの絶望が、大陸への侵略を促した。

当時から民間人は数多く大陸へ活路を求めて進出していたし、そこで不当に扱われていたのを助けられたのは軍隊だけであった。軍隊こそが苦境に喘ぐ日本の大衆の希望の星であり、救いの手であった。戦前、軍部は圧涛Iに大衆から支持されていた。これが現実だ。

しかし、だ。本当に大陸侵略以外に日本を救う手はなかったのか。私はもう一つの可能性があったのではないかと考える。そのヒントはアメリカにある。大恐慌に喘ぐのは欧米も同じだが、アメリカは一つの解決策を編み出している。

それが所謂独占禁止法である。巨大企業グループが市場の大半を支配して、公正なる社会競争が歪められていると考えたアメリカ政府は、多大な反対を乗り切って、独占禁止法を可決した。

その効果は遅々として、なかなかに表れていなかったが、確実に小さな企業を復活させた。新たな雇用が生まれ、大不況を緩和させた効果があったことは、戦後の研究で明らかになっている。

実は当時の日本政府もそのことを知り、調査団を派遣したり、うちうちに内務省あたりが研究していた。しかし、薩長閥を頂点とした特権階級が、その実現を阻んだ。君臨すれども統治に興味がなかった昭和天皇は関心すら示さない。まァ、示しても役に立ったとも思えないが。

もし、仮に1920年代に日本で独占禁止法が実施され、大財閥が解体を余儀なくされていたら、果たして日本はどうなっていただろうか。歴史にIFは禁物ではあるが、戦後GHQにより強制的に行われた財閥解体と農地解放が、その後の経済成長の苗床となった現実を思えば、考えてみる価値はあると思う。

大陸侵略だけを日本を救う政策だと考えていたがゆえに、戦後は侵略を否定し、戦争を否定し、軍隊を否定すれば良いといった安易というより空虚な平和主義者を蔓延させたのではないかと思うことがある。

8月15日は確かに戦争が終わった日ではある。しかし、敗戦の日として考えてこそ、本当の意味での反省が出来るのではないか。私は断固、終戦の日などという言葉遊びは認めてやらない。

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アルハンブラ物語 アーヴィング

2014-08-14 12:01:00 | 

十代の頃は、ラジオに夢中だった。

中波の深夜放送には中学、高校とはまり、夜更かしの悪癖がついてしまったほどだ。だが、多少音楽の嗜好が固まってくると、音質の良さを求めるようになり、必然的にFM放送を聴くようになっていた。

あれは二十代半ばの頃だった。なんとも奇怪で印象的な歌がラジオから流れてきた。番組はNHK・FMで夕方6時からやっているリスナーのリクエストの曲を放送する番組だった。

美声とは言い難い声だが、一度聴いたら忘れられないほどの衝撃であった。その歌詞も恐ろしく過激で、反社会的だと断じてもいいくらいだ。よくぞNHKが放送したものだと驚いたくらいだ。

おそらくは中年と思われるNHKの男性アナウンサーには理解しがたい曲であったのだろう。曲を流した後で「このような乱雑な歌い方は、如何なものかと思いますね」とコメントしていた。

多分、今だったらネット上で炎上しただろう問題発言ではあるが、分かる気もした。まるで抑えきれぬ激情を吐き出すかのような歌い方は、パンクともロックとも違うように思える。さりとて演歌ではないが、情念の迸りはフォークをはるかに上回る。

唄っていたのは真島昌利、ブルーハーツの一員であり、ソロ・デビューの曲であった。ほぼ同時期に近藤真彦がリリースしているので、こちらで聴いたことがある人もいると思う。

ファンの方には叱られそうだが、近藤マッチの歌い方はソフトに上手にまとまっていて、多分正当な歌い手としては、これが正しいのであろう。しかし、インパクトという点では、真島昌利の歌い方に到底及ばない。魂の込め方がまるで違う。

この歌があったからこそ、私はアンダルシアという地名を忘れることなく覚えていた。この地は不思議な場所である。いや、スペインとポルトガルという航海時代の先陣をきった二つの国があるイベリア半島自体が不思議だと言うべきだろう。

スペインとポルトガルはヨーロッパの国である。それは間違いないのだが、ヨーロッパでない香りを残している国でもある。理由は簡単で、かつて数百年にわたり、イスラム圏に属していたからだ。すなわちムーア人の国であった。

銘記していただきたいのだが、中世の世界では、イスラムとシナこそが先進国であった。ムーア人が支配したイベリア半島ではイスラム文化が花開き、この地には先進的な知識と、古来よりの英知が育まれた。

当時、ヨーロッパの人々はその知識を求めて、はるばるイベリア半島を訪れて、この地の大学で学んだものだ。ヨーロッパの地にもギリシア、ローマの文献は残されていたが、それはキリスト教が独占していた上に、キリスト教の教えと必ずしも一致しないが故に、教会はそれを封印してしまっていた。

皮肉なことに、文明の地オリエントを支配した異教のイスラムの地においてこそ、ギリシャ、ローマの英知は保存され、研究され、発展していた。ただ、ヨーロッパの地からオリエントはあまりに遠い。

だからこそ、イベリア半島のイスラム諸王国にヨーロッパの知識人はこぞって留学した。やがて力をつけた西欧のキリスト教諸国は、欲望に駆られてオリエントを襲った。世にいう聖地回復のための十字軍である。

この十字軍により、西欧諸国は富がイスラム王国にあると知り、オリエントのみならず地中海沿岸のイスラム諸王国に攻め入ったが撃退された。地中海はイスラムの海であり、海を越えての遠征は容易ではなかった。

そこで次に狙われたのがイベリア半島のイスラム王国であった。イスラムにとって辺境の地であるイベリア半島には援助の手は十分に差し伸べられず、途切れることなく襲ってくるキリスト教国の侵略に、遂に最後のムーア人の王国が潰えたのは15世紀になる。

美しいイスラムの都市は、破壊の憂き目にあったものも少なくないが、アルハンブラ宮殿を始めとして、イベリア半島南部のアンダルシアの地には、美を理解するスペイン人たちの手により、かろうじて保存された。

おかげで現代の我々もアンダルシアの美しいムーア人の建築物を鑑賞することが出来る。このような複雑な歴史を持つ地域だけに、ここはヨーロッパにあって、ヨーロッパにない雰囲気を持つ。それが喩えようもない美しさを醸し出し、世界中の人々を惹きつける。

現在では観光地の遺跡でしかないアルハンブラ宮殿に実際に住んだ表題の著者がつむぎだす、不思議なアンダルシアの物語。いつかこの地を訪れてみたいものだと思いました。

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緑のクーラー

2014-08-12 15:48:00 | 日記

銀座の事務所のあるテナントビルを出ると、熱気の凄さに思わず後ずさりしたくなる。

銀座に限らず、どこのオフィス街も似たようなものだ。太陽の日射だけでなく、空調の排気熱が大きな原因であり、またアスファルトが熱を保持して放射することも大きく影響している。

まるでサウナの中を歩くような気持ちで、千駄ヶ谷の東京税理士会館に電車で向かう。ここは税務会計関係の書籍が充実しており、この夏に取り組む新しい業務のための資料を探すのが目的だ。

税理士会館は新宿御苑のそばにある。都内でも屈指の緑地公園である新宿御苑だけに、夏のこの時期は蝉の鳴き声が凄まじい。だが、ここは明らかに空気が涼しい。

暑い空気は同じはずなのだが、緑豊かな林の中を潜り抜けた空気は、どこかヒンヤリとした感じがする。オフィス街の空調の排気熱のような、熱気のこもった空気は感じられず、草の香りがほのかに漂う乾いた空気に変わっている。

これは森のなかの空気に間違いない。

私は目が悪い分だけ、嗅覚と聴覚に頼る癖があった。森深い山道を歩くときは、音と匂い、地面の固さ、植物の生え具合などに注意をする必要がある。実を云うと、北アルプスや八ヶ岳のような高山では、あまり気にしない。特に植物がすくない岩稜帯を歩くときは、踏み跡は限られており、迷うことはまずない。

ところが、標高の低い山だとハイキングなどに使う登山道と、地元の人が仕事で使う杣道が入り混じっていることが多々ある。杣道は必ずしも山頂を目指す訳ではないので、間違って入り込むと迷ってしまう。

また標高の低い山では、獣道と人の使う山道が入り混じることも少なくない。イノシシやシカにとって、整備された山道は歩きやすいので、人がいない時間帯、つまり深夜などだと堂々と登山道を使っている。

ただし、野生動物は山頂を目指すわけはなく、水場や餌場へと移動するのが目的なので、登山道をそれて奥深い山裾へとずれていく。多くの場合、体高が低い野生動物に合わせて、緑のトンネルとなるのですぐ分かる。

だが、季節によって、あるいは植生によっては獣道と登山道があいまいになることもある。そんな時は、匂いと地面の柔らかさで判断する。獣道は多くの動物が匂い付けをするし、糞が点在しているのが普通だ。

また当然に人間が踏み固めた登山道とは、明らかに道の固さが異なる。これに気が付かないと、獣道に迷い込み、山中を彷徨うことになる。毎年、必ず発生する山での遭難のうち、低山での事故は、大半が登山道をはずれたことから起きる。

困ったことに、意図的に登山道をはずれる人間もいる。山菜採りがその典型だが、他にも写真撮影とか、思いもよらぬ理由で登山道をはずれて、山道を彷徨う遭難者も少なくない。

地元の人が仕事に使う杣道なら良いが、獣道だと人が歩くことを前提としていないので、けっこう危ないことが多い。俊敏な獣と異なり、人間はかなり鈍重だ。ちょっとした崖でも、シカやイノシシは平然と歩けるが、人間はすくに足元を掬われる。

転倒して怪我をし、動けなくなって初めて山の怖さを知る。特に夜が訪れて、星明りさえ見えぬ真の闇に怯えることになる。私も経験があるが、暗闇のなかで動くことも出来ずにいると、普段気が付かない音や匂いに気が付く。

静かだと思っていた夜の山は、意外に賑やかだ。匂いだって草や花の匂いだけではない。イノシシやシカがする匂い付けの獣臭や、腐った果実の匂いが漂うこともある。

暗闇のなかで怯えながら、普段気が付けない音や匂いに驚き、人間の鈍感さを思い知る。学生の頃は、暑い夏はいつも山か海にいた。自然の匂いが当たり前のようにあり、たまに街中に行くと、人間のもたらす不自然な匂いに違和感を感じたほどだ。

そんなことを考えながら歩いているうちに、御苑脇の税理士会館に着いた。おや?やけに人が多いぞ、今日何かあったっけ?

そこで、ようやく気が付いた。今日は「広大地に関する判例等の研修」だったことに。出るつもりだったのに、忙しくて忘れてた。

しまった、暑さに頭がボケていたに違いない。仕方ないので、買う予定だった資料に加えて、今日の講師の書いた本も一緒に買っておくことにした。カバンがその分重くなったが、これは仕方ない。

会館を出ると、既に夕刻で御苑からはヒグラシの寂しげな鳴き声が響いている。木々の梢を抜けた涼しい風が心地よい。建物のなかのクーラーによる冷風よりも、はるかに体に優しい涼風だ。

やはり自然はいい。緑のクーラーに勝るものなしだと思う。

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