日本史に名を遺した人のなかでも、やはり織田信長は突出して魅力的だと思う。
実力がなければ生き残れない戦国時代の武将ではあるが、信長の存在は飛び抜けて異端だと感じることが多々ある。日本人らしくないというべきか、革新者でありすぎる。
もっとも当時の歴史を詳細にみていくと、信長がやったとされる革新的な政策には、その前例というか先駆的存在があり、信長はそれを取り上げ、より効率的に運用していたのが実態に近いと思っている。
一例を挙げれば、戦国時代の兵士は平時は農民で、戦の時だけ徴用されるパートタイム兵士であった。当然に農繁期には徴用できず、必然的に戦の時期は農閑期とならざるを得なかった。
しかし、信長は給金を支払って雇用した専業兵士を持っていた。ちなみにその給金は、楽市楽座で得られた貨幣をもって購っている。農民兵が常識であった時代にあって革新的なのは確かだが、信長はおそらく堺の警備を担った雇用された兵士などを参考にしていたと考えられる。
米の石高をもって経済力の指標としていた時代にあって、商業の価値を認め、そこから得られるお金で常備兵を備えた先駆者ではなかったが、信長はそれを大々的に行い、その経済力に裏付けされた軍事力で日本統一を目指した。
このように書くと、簡単なことに思えるが、実際にやってみれば様々な抵抗を受け、結果的に失敗した先駆者は数多いのは、今も昔も変わらない。信長が目立つのは、結果を残したからであり、極めて政策実行力の確かな政治家であるのは確かだ。
では、なぜに信長は成功したのか。いくら崇高な理想であろうと、既成の概念や常識の枠を飛び越えて実行するのは至難の業だ。それを可能にしたのは、信長自らがその理想の体現者であり、実践者であったからだ。
それだけではない。信長といえば極めて厳しい武将であり、信賞必罰は当然のこと。時には苛烈なまでに部下に当たることでも知られている。だが、厳しいだけでは、下はついてこない。
想像だが、信長は時折人の心に染み入るような優しさを持っていたのだと思う。日ごろ厳しい人が、時たま見せる優しさは、そのギャップゆえに人の心に深く染み入る。まったく魅力的な人物だと思う。
当時の武将の嗜みではあるが、信長は茶道や雅楽など芸術面にも通じていた。だとしたら、食事についても先駆者的な楽しみを見出す人物であった可能性は高いと予測できる。
実際、安土城で部下の武将たちに振る舞われたとされる食事の献立が一部残っているが、かなり贅を尽くしたものであった。これはNHKの番組であったが、解説していた料理学校の先生が、当時の最高技術を用いたものだろうと話していたほどだ。
だとしたら表題の漫画で描かれているように、現代からタイプスリップした料理人が、信長の御眼鏡に適う可能性は十分あるだろう。だからこそ、この漫画は面白く、ヒットした。
まだ連載が続いているので、いかなるエンディングをみせるか分からないが、読者としては十分期待できる。私はタイムスリップなど時間SFは、必然的に予定調和を目指さざるを得ないので、あまり好まない。でも、この漫画は美味しそうな献立と相まって、けっこう楽しんでいます。
上空は夏の晴天であり、谷間を渡る涼風が心地よいと思っていたのは、ほんの小一時間前だった。
今はただ、リーダーの指示のもと、谷筋を離れてひたすら上へと山道を登っていた。全員が真剣であり、軽い恐浮キら感じていたが、名の知れたアルプス登攀のベテランがリーダーを務めていたので、パニックに陥ることはなかった。
あれは大学4年の夏、既に就職活動を終えて、社会人としての登山を考えていた私は、日ごろ出入りしていた某スポーツ用品店の夏の企画「黒部渓谷で沢登体験ツアー」に応募して、参加することにした。
休みの少ない社会人ともなれば、週末ぐらいしか登山は出来ないはずだし、そうなると今までの縦走登山よりも、岩壁登攀や沢登のほうがやりやすいと考えていた。ただ、大学のWV部では、登攀技術を使った登山を禁止していた。だから有料の登山スクールなどで、登攀技術を磨いていた最中であった。
黒部渓谷は、日本屈指の大渓谷であり、沢登の対象としては特A級の難易度を誇る。だが、今回のコースは支流であり、せいぜい初中級といったレベルなので、私も安心して参加できた。なにより引率するリーダーのM氏は、日本では名の知れた登山家であり、是非とも指導を受けたいと思っていたからでもある。
夏山シーズンのベストは、梅雨明け2週間程度だと云われている。8月第一週に富山に現地集合して、すぐにトロッコ電車で黒部渓谷入り。途中で降りて黒部渓谷へ下ったのは昨日だった。
今日も快晴であり、堅い岩肌と清流を楽しみつつ、時にはザイルをかけ短い滝を直登し、時には沢に飛び込んで渡り冷たい渓流を楽しんだ。広い中州で昼食を食べて、再び遡行を初めて2時間。どうも雲行きが怪しい。
リーダーのM氏は携帯無線機を持参しており、時折山小屋に連絡をとっていたが、急に声が緊迫し、なにやら地図とにらめっこをしている。数分後、全員が集められ、M氏から遡行の中止を云われた。
なんでも上流で雷雨が発生し、現在水量が急激に上昇しているので、中流域のこのあたりも水で埋まる可能性がある。だから少し戻って尾根筋へ緊急避難するとのこと。
山ではリーダーの言は絶対であり、今回のツアーでも誓約書を提出している。数人不満を口にする人もいたが、M氏に一喝されてしぶしぶ尾根筋への避難に合意した。
私は当然だと思ってはいたが、いざ尾根筋に登りだすと、その急傾斜に閉口した。荷が軽いとはいえ、息も絶え絶えとなる登りであった。が、その時誰かが大声を上げた。
5~60メートルは沢から登ったはずだが、その沢がさっきよりも太く見える。沢から離れれば、沢は細く見えるはずなのに、むしろ沢が近づいているかのような錯覚を感じた。そして、なによりも水の音がまるで違う。いや、色も違ってきている。
上流で降った雨水が、黒部渓谷に流れ込み、水量が急激に増えているのだ。リーダーのM氏が大声を上げて、もっとペースを上げるようにと指示した。もう誰一人不満なんか口にしない。
眼下で次第に水量を増す沢に恐浮エじたからだ。実際、私もこれほど急激に水量を増やす沢は初めてお目にかかる。それから小一時間あまり、必死に登りなんとか稜線にたどり着いた。だいたい200メートルぐらいは登ったと思う。
しかし、私たちはいささか怯えていた。どう見ても、数十メートルは増水していた。その激流が発する轟音は、私たちの耳に響いており、あの場にいたら確実に死んでいたことは、誰もが分かる事実であった。
ちなみに私たちは、まったく雨に降られなかった。ただ数キロ上流の山域で降った雷雨が、沢筋に流れ込み、深い谷間を激流で埋めてしまったのだ。改めて自然の怖さを思い知らされた。リーダーのM氏の情報収集と、その決断の早さ、正確さに救われたわけだ。
先週末だが、神奈川の西部で川の中州にキャンプをしていた家族が増水に流され、3人が亡くなったとの報道があった。亡くなられた方には申し訳ないが、あまりに愚かすぎる。
川の中州なんて、たまたま水面上に顔を出した水底に過ぎない。なんでも業者が盛り土して、オートキャンプ場として営業していたらしい。オートキャンパーには、アウトドアの知識が不十分な人が少なくないのは知っていたが、これはあまりにひどい。
私とて中州で食事をしたり、川遊びをした経験はある。しかし、中州でキャンプなんざ頼まれても厭だ。たとえキャンプ場に雨が降っていなくても、その上流の山間で雨が降っていたのなら、数時間後には山裾から流れ沢筋に流れ込んだ雨水が、川を増水して中州を襲うことは、山をやる人間なら常識だ。
亡くなられた方を悼む気持ちがないわけではないが、正直言ってこれは人災です。関係者には大いに反省を求めたいですね。
決して褒められた話ではないが、私はけっこう手を抜く子であった。
とにかく全力を出さない。特に強要された場合は、ほぼ確信犯的に手を抜いた。ただし、自分が納得した場合は別で、その時は全力で走り、吐くまで走り、痛みを無視して走りきった。
納得するには、相応の理由なり、根拠が必要となる。岩壁で動けずにいる後輩を助けるためにフリーソロで登った時や、足をくじいた仲間を搬送するために、必死で下山した時などは、翌日になって激しい筋肉痛に襲われるほど頑張った。
必要ならば全力を出す。そう、勝手に決めていた。嘘じゃない、嘘じゃないけど、今なら分かる。嘘が7割だと。
本当は自分が苦しいのが嫌いだった。激しい呼気で胸が痛くなるのが浮ゥった。7歳の時の健康診断で云われた心雑音を、訳も分からず恐れていたのは事実だ。しかし、今なら分かるが、それは言い訳だった。
苦しいことに耐えるのが苦手なだけだ。あと一歩を踏み出す勇気に欠けていただけだ。それが嘘が7割の真実だと今なら分かる。
自分で勝手に妄想していた心臓発作だが、本当に発作を起こすほど頑張ったことはない。
やるべきだった。徹底的に体を苛め抜き、倒れるほどに鍛えるべきであった。皮肉なことに、その必要性に気が付いたのは難病で身体を、どうしようもないほどに壊してからだった。
もう出来なくなって、ようやく、それが必要であったことに気が付いた。そして、今なら分かる。自分で勝手に作った壁を超えるためには仲間が必要だと。一人では乗り越えられなくても、仲間がいれば出来る。
表題の映画は、子供向けではあるが、私は子供の頃の悪い癖を思い出してしまい、複雑な気分で映画館を後にした。映画自体は楽しかったですし、別に不満があるわけでもない。
ただ、自分の情けなさ、至らなさを思い出してしまった。私にもチャンスはあった、あったはずだ。それを活かせなかった自分が悪い。
子供向け映画ってやつは、時折心の奥底に隠してあった秘密の箱を開けてしまう。それが楽しいこともあるのですが、今回は厳しかった。映画自体はとっても良かったのですがね。
あの3,11の年以来、8月だけは水曜日はお休みします。
これは先代の頃から8月は仕事が少なく、そのせいでダレた雰囲気になっていたのが嫌でした。関東で原発が停止して以来、電力不足のこともあり、私の事務所は自主的に8月限定で水曜日を休みとしています。
仕事的には、日程が詰まるので大変なはずですが、スタッフも早めに出社して集中して仕事に取り組んでくれるので、むしろ中身は濃いものとなったと考え、今年も8月は水曜日を休みとします。よって、ブログの更新も水曜日はお休みしますので、ご了承のほどお願いします。
中学生の頃に、町道場出身のクラスメイトからいろいろと柔道技を教わった。
彼は当然に柔道部であったが、それゆえに体育の授業で柔道の時間となると、そのあまりの強さから日ごろ腕自慢の喧嘩猛者でさえ敬遠されていた。私は彼がつまらぬ弱いもの苛めをしない奴だと知っていたし、どうせなら強い奴とやって技を覚えるくらいのほうがいいと思ったので、積極的に彼と組み合った。
そのせいで、妙に気に入られてしまい、また彼がプロレスにも関心が深いこともあって、休み時間などに体育館のマットの上で、プロレスの技のかけっこなどをして遊ぶようになった。
空手やボクシングをやる連中が、プロレスを八百長だと馬鹿にするなか、彼は珍しくプロレス擁護派であった。その理由は、誰もが使えるプロレス技は、かけかた次第で恐るべき殺人技になることを知っていたからだ。
どうも町道場の先輩たちに教わったらしいのだが、彼はプロレスラーが、技と怪我をしないように技をかけていることに、ある種の敬意を抱いていたように思えた。
その彼から教わった、怖いプロレス技にボディスラムがある。ただ単に抱え上げてマットに投げ落とすだけの痛め技であり、単に次の大技へとつなぐための技でもある。それだけだと思っていた。
しかし、放課後の体育館で、高跳び用のマットの上で彼にかけてもらったボディスラムは、私に背筋が凍るような恐怖を味あわせた。背中からではなく、脳天から落とすボディスラムは、文字通り殺人が可能な威力があることが私にも分かった。
プロレスラーは、意図的に背中から投げ落とすことで、ボディスラムの威力を弱めて使っているのだとよく分かった。ただ、安全に投げるには、相当な背筋力と腕力を要する。怪我をさせずに投げるには、やはり相当な練習が必要なのだと分かった。
ちなみにアメリカのNYで絶大な人気を誇った善玉レスラーのブルーノ・サンマルチノは、悪役レスラーのスタン・ハンセンがかけそこなったボディスラムのせいで首を折り、それが結果的に引退を早めた。あのぶっとい首のサンマルチノでさえ、受け身をしくじると、首の骨が折れるのだからボディスラムは恐ろしい技である。
もっとも、柔道では背負い投げや一本背負いなどでも、落とし方次第で同様な効果があるとも教えてくれた。柔道では意図的に背中から落とすように指導しているので、その怖さが知られずにいることを、彼はひどく悔しがっていた。
あまり喧嘩が強くなかった私は、喧嘩でも使える柔道技を教えてくれと頼むと、ちょっと首を傾げ「これなら、いいかな」といいつつ、私に殴りかかれと言ってきた。
どうディフェンスするのだろうと思いつつ、軽く左ジャブを放った次の瞬間、私は肩に激痛を感じながら、床に押し倒されていた。私の左手首を掴んだ瞬間、彼は腕を支点に回り込み、梃子の要領で私を地面に押し唐オてしまったのだ。
技の名は「脇固め」。肩と肘を同時に極めてしまう関節技であり、手加減を間違えると折れる可能性も高い。寝技と思われがちだが、上手な使い手は立ったままの姿勢からでも極めてしまう。
痛ってて・・・ギムアップ、ギブアップと悲鳴を上げながら、その威力に戦慄を覚えた。この技を決めるポイントは、如何に相手の上腕部を捕まえるかであり、腕の払い方や、足運びを何度も練習した。
私は足元を見ずに崩す足払いは、けっこう得意だったが、上半身が固いのか、この技に入る手前でもたつき、覚えるのに苦労した。だが、この技は確かに実戦的で、なんどか街の喧嘩で私を救ってくれた。
この技は、見た目が地味なので、プロレスでは当時あまり使い手はいなかった。だが、新日本プロレスで関節技の鬼と呼ばれた藤原義明が使いだし、注目を集めるようになった。特にUWF勢は、この地味な関節技を上手く使っていたが、そのなかでも藤原に並ぶ使い手が、木戸修であった。
今どきの方だと女子プロゴルファーの木戸愛の父親といったほうが分かりやすいかもしれない。新日本プロレスでは古参レスラーであったが、非常に地味な選手であり、UWF以前は前座の試合でしか観たことがなかった。
顔立ちはまあまあ整った人であり、常に日焼けしたバランスのとれた体躯であり、本来ならもっと目立ってもおかしくないはずであった。にもかかわらず地味なままの前座レスラーであったのは、関節技など実戦的だが、見栄えが良くない技に固執する頑固者であったからだと思う。
当時、コアなプロレスファンの間で話題に上がっていたのは、どんな激しい試合でも乱れない木戸の髪型であった。どうもポマードでがちがちに固めていたようだ。それほど髪型に拘るほどの人が、なぜに地味な技ばかり使い、前座レスラーに甘んじているのか、それが不思議であった。
これは正味の話だが、プロレスラーは目立ちたがりが多い。自分の強さをアピールしたがる喧嘩自慢に、最も相応しい仕事がプロレスラーだ。そんな思いでプロレスラーになった人は少なくない。
では、木戸はいったい何を求めてプロレスラーになったのか。実はよく分からない、分からないが木戸がプロレスが好きで続けていたことは確かだ。強さをアピールすることに固執しなかったが、使う技は実戦的な関節技に拘った。
しかし、本気の勝負(シュートと呼ばれる)に強かった藤原ほど、勝負に固執していたようにも思えない。ただ木戸の実力は本物で、のちにトーナメント戦で優勝しているほどだ。それも地味な技ばかりで。
優勝した時は、実に嬉しそうであったが、翌日の試合からは再び地味な技を繰り返す元の木戸に戻っていた。今だから分かるが、多分木戸はプロレスをすること自体が好きだったのだろう。
あれだけ関節技を駆使しながら、誰ひとり怪我させず、あれだけの強さを持ちながら、それを他人を押しのけてまでアピールしようともしなかった。ただ、プロレスが出来て、それが毎日続けばよい。
非常に珍しいタイプのプロレス職人、それが木戸修であったと思います。