ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

アベノミクスの功罪

2015-07-24 13:32:00 | 経済・金融・税制

アベノミクスについて、異論反論は多いと思うが、一定の景気浮揚効果があるのは確かだと思う。

それは国内の株式市況をみれば分かる。また上場企業の決算も、相応に利益を上げている。これをアベノミクスの成果と云わずして、何と云おうか。

だが、その中身を吟味すると別の側面も見えてくる。平成26年度の政府の税収の内訳をみると、一位は消費税であり、国家歳入のうち16%を占める大黒柱となっている。二位は所得税であり15.4%、三位が法人税で10.4%となる。

問題はその所得税で、更に詳しく分析すると、給与所得や事業所得はさほど伸びていない。伸びているのは源泉所得税である。どういうことなのか。ご存じのとおり、日本では預貯金の利子や株式の配当、投資信託の分配金からは予め源泉所得税が天引きされている。

低金利が長く続く日本では、当然利息はほんの僅かであり、株式市場に上場している企業も配当は減少し、必然投信信託も低迷していた。しかし、アベノミクスが始まって以降、上場企業の業績は向上し、配当金は増え、それに連動する形で投資信託も復調の兆しを見せていた。

その結果、特に株式配当が大幅に増加し、必然的に配当から天引きされる源泉所得税も増えていった。だからこそ、所得税の税収が増える結果となっている。

この配当金の増額は、確実に景気浮揚効果をもたらし、株式投資家の懐を潤した。つまりだ、アベノミクスは確実に大企業と投資家に大きな利益をもたらした。それがアベノミクスの成果であり、また限界でもある。

これでアベノミクスが金持ち優遇だと批難することは容易い。しかし、敢えて暴言を承知で書いてしまうと、貧困層を優遇するより、富裕層を優遇したほうが景気浮揚効果は大きい。事実、母子手当の増加などは、貧困層には優しいが、景気浮揚効果はほとんど見込めなかった。

その意味でアベノミクスは評価してもいい。しかしだ、企業の株式配当は増えたが、問題はその原資だ。企業の利益を稼ぎ出した従業員には若干の昇給や、ボーナスの増加があったのは事実だ。

それが大企業と公務員限定であったとしても、それは事実だ。ところが、日本の企業は多層的な構造を持つ。つまり大企業の仕事を下請けし、更にその孫請けをしている中小企業には、ほとんど恩恵はなかった。いや、むしろ大企業が利益を稼ぎ出すために、中小企業は犠牲を強いられたのが現実だ。

だから、日本の企業の7割を占める中小企業には好況感は乏しい。一番金遣いの荒い中小企業の社長さんたちは、今も倹約生活を続けている。これもまたアベノミクスの現実である。

当然ながら、その中小企業で働く労働者や、零細事業者には好況感の欠片もない。あったとしても、ほんの一部に限定されているのが実情だ。当然である。法人税は減税されても、所得税は増税されたまま。医療費と社会保険料は毎年増える一方であり、支給される国民年金はなぜか減額される一方だ。

既に働かない高齢者が増えている日本では、この年金生活者の生活苦は一向に改善されていない。これもまたアベノミクスの現実である。

私が野党の政治家ならば、この点を一番に問題視するが、ご存じのとおり日本の野党は現実をみない。新安保だと違憲問題などで気勢を上げ、新国立競技場問題で騒ぎ立てるぐらいが関の山だ。

これでは次の選挙も、野党には期待できないのは自明の理であり、自業自得としか言いようがない愚かさだ。日本の不幸は、健全な野党と、これまた健全なマスメディアが少ないことであろう。

あたしゃ、時々本気で嫌気がさす。反日自虐には反発を覚えるが、気が付くと日本の現状の愚かさに大して、自虐的気分に陥るのを避けられずにいます。

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インサイド・ヘッド

2015-07-23 12:07:00 | 映画

人生、明るいだけじゃダメだって事に、何故気が付かないのか。

そりゃ明るく楽しい人生は望ましい。そんなことは分かっている。だが、人生を歩むことは、曲がりくねった街路樹の歩道を歩くのに似ている。暖かい日向もあれば、うすら寒い木陰もある。日差しが眩しすぎて前が見えないこともあれば、木陰の涼しさがありがたい時もある。

決して一本道ではない。曲がりくねった先に何があるのか分からない時もある。行き止まりに突き当たり、途方にくれた身を照らす輝かしい日差しは迷惑だ。むしろ薄暗い木陰で静かに考えたい。

それなのに、馬鹿みたいに明るく生きようと進めるのは、無知と傲慢でしかない。時には暗さだって必要だ。俯いて、涙を隠しながら悲しみに浸ることが必要な時もある。

思いっ切り泣いて、その後はスッキリとすることだってよくある話。明るさは万能の処方箋ではない。時には明るく振舞わねばならないことが苦痛な時もある。むしろ、思いっきり暗く沈んでおいたほうが後々の回復が早いときもある。

ポジティブな選択だけが幸福につながるわけじゃなく、時にはその逆だって必要な時もある。人生は一本道でもなく、分かれ道も行き止まりもある。おまけに、日向もあれば暗闇もある。

日差しがあるところには必ず影が出来る。その日差しが強ければ強いほどに、その影は濃くなる。だが、その影は決して無駄ではない。強い日差しを避けて木陰で涼を取り、身体を休める必要だってある。

「悲しみは必要なの?」

この映画では、そう問いかける。最後まで見れば、その答えが分かるはずだ。子供向け映画なので、いささか単純に過ぎる面はあるが、それでも十分に大人にも進められる良質なアニメだと思います。

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煽動報道に思うこと

2015-07-22 11:58:00 | 社会・政治・一般

反省しないから、進展もない。

TVでニュースを観ていたら、新安保法制に反対する市民が、国会前に集結していると報じていた。アナウンサーが「家にいても黙っていられず、国会に駆けつけました」と興奮顔で語る市民の声を報じていたのに呆れた。

毎回のことではあるが、相変わらず進歩のない。

ちなみに報道では、自主的に国会前に集結した平和を愛する市民たちは2万人だそうだ。多分実数は、その半分にも満たないだろう。また自主的に駆けつけた市民なんて多くて二桁。大半は共産党や社民、民主のプロ市民たちの主導に従って集った人たちであろう。

それにしたって、わずか2万である。100万人を遥かに超えた60年、70年安保闘争に及ばないのはともかく、実質的な戦争法案である新安保法制に反対する平和を愛する市民は、それだけしか集結しない現実に憐みを覚える。

断言するが、ほとんどの日本国民は戦争に参加することなんて望んでいない。政治思想を問わず、戦争には否定的であろう。しかし、この人たちは、ニュースなどでマスコミが盛んに誇張して報道している戦争反対の市民の集いには参加しない。

何故なら分かっているからだ。日本の平和を守っているのは憲法9条ではないことに。戦後70年以上、日本が戦場にならなかったのは、アメリカ軍のおかげであり、日本は兵站拠点としてアメリカの戦争に間接的に協力することで生き延びてきた現実を知っているからだ。

だから、アメリカが望むなら、自衛隊の派兵にも応じねばならぬ冷酷な現実を分かっている。抗議したって無駄なことも分かっている。アメリカの政策に同意している訳ではない。しかし、そのアメリカに従うことで平和を守ってこれた現実も分かっている。

このような矜持もなければ、強い独立の意思もない穏健な(あるいは姑息な)平和主義者であり、自分の手を汚さずに戦争で稼いできた優秀な(あるいは卑劣な)平和主義者である日本人が、実は多数派を占める。自覚があろうとなかろうと、対米追随こそが戦後の日本の生きる道だと諦念している人たちでもある。

この現実を直視できないのが、所謂左派反日自虐の平和愛好善人ぶりっこの新聞社であり、TV局であり、出版社である。なんとかして、この穏健な平和主義者を自分たちの運動の支持者に取り込みたい。

だからこそ、毎回のように、如何にもおとなしそうな一般市民が、自主的に政府への抗議運動に参加しているとう報道をしたがる。そして、毎回多少ではあるが、これに釣られる鴨葱がいる。成果あり!と意気盛んなことは、アナウンサーの口調からも分かる。

バカだね。

相変わらず、自分たちの活動を客観視出来ていない。なぜに選挙で自分たちが常に少数派であるのかを真面目に考えていない。自分たちが正しいと信じ込むがゆえに、その正しさが本当かどうかを検証する勇気がない。

私の知る限り、このおバカちゃんたちはイイ人が多い。弱い人への労りの気持ちを持ち、不正に対する憤りを持ち、良き隣人たらんと務める善良なる市民である。そして、自ら自分たちがイイ人だと自覚している。

自分たちがイイ人であるがゆえに、自分たちの考えは常に正しいと検証なしに信じ込んでいる。だから現実に対応するのが苦手だ。ただ、自分たちが正しいと信じていることが実現すれば、それで世の中は平和になると思い込んでいる。

5年前、民主党が選挙において自民党を破ったのは、多くの有権者が自民党に満足せず、その不満を解消してくれるはずと民主党に期待したからに他ならない。しかし、民主党はその民意を無視した。

自分たちが政権与党になれたのは、長年少数意見であった自分たちの政治的主張に有権者が理解を示したからだと曲解した。そして、その現実離れした少数意見を実現しようとして、無様に失敗した。それが3年間の民主党政権であった。

今回の新安保法制を巡る民主党ら野党の動きを観ていると、その三年間の失政をまるで反省していないことが良く分かる。相変わらず、民意をくみ取ることよりも、自分たちの正しさを主張することに固執している。

そして、それを応援している輩がマスコミに少なからずいることが、良く分かる報道が相次いでいた。

私としては一安心である。彼らが現実を直視する勇気を持たず、真摯に民意を汲み取る気がない以上、決して多数派になることはない。そのことに確信を持てたのが、今回の新安保法制を巡るマスコミの煽動報道であった。

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医学生 南木佳士

2015-07-21 12:07:00 | 

優しいだけではダメなのだろうか。

この季節、時折思い出すのは20代前半、既に会社を辞めて新しい人生を目指して、税理士試験に挑んだ最初の夏だ。当時、週3回専門学校に通い、毎日8時間ほどの勉強を繰り返していた。

あの頃の猛勉強は、大学受験を遥かに超えて、質量ともに重厚な受験生活であった。気力も充実していたし、結果も伴っていた。5月の全国模試では簿記論で全国1位になったこともある。もっとも7回の模試のうちの一回だけであり、トータルでは40位程度であった。

だから慢心なんてありえなかった。十分合格圏に入っていたが、過去のデーターから油断は大敵だと分かっていた。心地よい緊張のもと、猛勉強に励んでいたのだが、ふと気が付くと手足が浮腫んでいるように思えた。

恐怖心を押し隠しながら大学病院を訪れると、主治医は「ちょっと詳しく診てみよう。今忙しいから、病室で休んでいなさい」と穏やかに語り、私は呆然としながらも、待合室で待っていた。

そこへ顔見知りのヘルパーさんが車椅子をもって現れ、私を載せると一昨年10か月あまりお世話になった病棟へ運ばれた。懐かしのナースステーションに着くと、数人の看護婦さんたちが駆け寄ってきて「再発しちゃったの?また入院だね」と言うので、もう諦めた。

軽いショックから抜け出し、病室のベッドの上で、やはり再発なのかと自分を無理やり納得させていた。夕刻、外来診療を終えた主治医がS先生を連れて、私の病床に訪れて、入院加療が必要なことを話してくれたが、もう分かっていたので呆然と聞き流す。

S先生は患者からの信頼の厚い医師であるとの評判を聞いていたので、ひとまず安心する。夜になり母が寝間着等入院道具をもってきてくれた。余計なことを云わずにいてくれたのがありがたかった。

病棟の夜は早い。9時には消灯し終身である。まだショックから抜け切れぬまま、私は静かに寝てしまったが、あまりに早い就寝であったので、深夜に目を覚ましてしまう。

ようやく気持ちが落ち着き、冷静に今後のことを考えてみる。おそらく半年は入院だろう。ステロイドの大量投与もあるだろうから、しばらくは外出もままならぬ身体となるだろう。8月の国家試験には、どう考えても間に合わない。

今までの努力が思い出されて、気が付いたら泣けてきた。声を出さず、歯を食い縛って涙した。朝になって顔を腫らしているのも嫌なので、洗面所で顔を洗い、再びベッドに戻った。すっきりしたので、すぐに寝付いた。

翌朝、朝食を終えるとS先生がやってきて、若い先生を紹介してくれた。インターンのU先生とのこと。イルカに乗った少年で人気を博した城みちるに似た風貌の優しい顔立ちの青年であった。

私にインターンが付くのは、前にもあったので、別に驚きはない。私が驚いたのは、このU先生がえらく人懐っこいことであった。話好きだし、医師の卵として患者に接することが嬉しくて仕方ない様子が見て取れた。

だが、長期の入院生活を経験済の私は、少し危うく思っていた。この病棟は普通の内科病棟ではない。全国から難病患者が集まってきている特殊な病棟である。

原因も分からず、治療法も確定していないが故の難病である。その長期にわたる療養生活は、身体だけでなく心を痛めつける。率直に云えば、心がねじくれた癖のある患者が少なくないのが特徴であった。

未来に希望を持てない患者は、時として弱いものイジメをすることがある。私の嫌な予想は当たり、この優しげなU医師は、インターンという弱い立場にあるがゆえに、長期入院している心のねじけた患者たちのイジメのターゲットにされてしまった。

最初は溌剌としていたU医師だが、次第に暗い表情を覗かせることが増えたように思う。一部の患者たちに嘘をつかれたり、あらぬ噂を流されているらしいことは、私の耳にも入っていた。

半年は入院することを覚悟していた私だが、予想に反して4ヵ月ほどで退院できた。ただし、治ったわけではなく、病床の空きが欲しかった病院側の都合で、比較的元気な私が、自宅療養に切り替えられただけだ。

私は、これ幸いとさっさと退院したが、その後も病棟には時々遊びにいっていた。いつのまにやら、U医師の姿は消えていた。看護婦さんたちは口を濁していたが、どうも他の科に移されたようだ。普通は一年はいるはずなので、なにか特殊な事情があったのだろう。

U医師は、病気の母を介護した幼き日の思い出から、医師への道を目指したと語っていた。その純粋なる動機は、その話を聞いた治る当てのない患者たちの反発を生んだことに気が付くのが遅かった。

あまりに無邪気な善意は、時として人を傷つける。彼はまだ若いので、きっと他の科で立ち直ったと信じたい。

表題の書は、現役の医師である作者が、その若かりし頃の医学生時代を振り返った作品です。どちらかといえば純文学志向の強い南木氏ですが、本作は珍しく大衆小説路線で書かれている。そのために読みやすいのですが、私はついついその医学生たちを身近に見ていた、20代の長期入院を思い出します。

若かりし頃の迷いと錯誤、誰の人生にもある重要な岐路と、その決断を劇的ではなく、淡々と描いていることが印象的でした。機会がありましたら是非どうぞ。

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ターミネーター 新起動

2015-07-17 11:58:00 | 映画

上演一時間前には映画館の窓口に並んだが、驚いたことにほぼ満席であった

おかげで、最前列の席になり、スクリーンを見上げての鑑賞となった。席について振り返ると満席であり、こんな風景をみるのは久しぶりだ。まァ、外が真夏の暑さであるので、涼を求めて映画館に来た人もいるようだが。

かくも人気がある作品なのだが、正直私の評価は少し辛目だ。これはタイムトラベルを扱った映画全般に云えることだが、過去を変えてしまった場合に生じるはずの変化が複雑に過ぎて、エンターテイメントとして処理するのに少し無理がある。

これはタイムトラベル自体が、未だ不確定というか、理論的にもまったく未完成のものであるため、どうしてもご都合主義が出てしまう。いくら、もっともらしく説明しようとも、過去の作品との整合を完全にとるのは不可能だ。

それは作品に登場するサラ・コナーやカイルたちも同様で、スカイネットさえも時間軸のずれという表現に逃げているくらいだ。タイムトラベルを作品として成功させるためには、予定調和に持ち込む以外に手はないと思う。

でも、それではツマラナイ。だから観客の意表を突くシナリオが書かれるのだが、率直にいって完全に成功しているとは言い難い。だから、どうしても辛目の評価となる。

ただ、単純にアクション主体のエンターテイメントとして観れば、けっこう楽しめる。特に老齢に達しているシュワルツネッガー演じるターミネーターが「老いぼれだが、ポンコツではない」と何度も言い返すところは笑える。これ、ターミネーターとしてではなく、シュワルツネッガーの本音のはずだ。

それが観客にも分かるから、この科白が出るたびに劇場内で失笑が漏れ聞こえた。もちろん私もニヤニヤしていた。そんなに意地になりなさんなと、シュワルツネッガーの肩を叩きたくなるではないか。

文句の付けどころはいろいろあるが、十分楽しめた2時間でしたよ。

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