ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

空き家と不動産業界への疑問

2015-07-16 14:43:00 | 経済・金融・税制

何故に値崩れしないのか、不思議で仕方ないのが不動産市場だ。

近年に至り、空き家、空き室、空きテナント、空き駐車場が目立つようになった。特に駅から離れた郊外型の物件だと、その数が目立つ。昨年、NHKが報道で、9軒に一軒は空き家だと報じていたが、郊外の場合だとそれを遥かに上回るように思える。

普通の商品ならば、このような場合大きく値下がりするはずだ。ところが不動産に関しては、せいぜいが小幅の値下げに限定されてしまう。土地付きの一軒家はともかくも、マンションでさえなかなか値が下がらない。

不思議に思っていたが、その理由の一端が分かったような気がする。人づてに聞いた話なので、信ぴょう性はあまりないが、私はなんとなく納得できた。

ある夫婦が郊外にある4LDKのマンションを売って、都心の2LDKのマンションへ転居を希望していた。子供たちは既に自分の家を持ち、広すぎるマンションは掃除が大変だし、なにより駅が遠く不便だ。

そこである不動産屋に仲介をお願いしたのだが、一向に話が進まない。最初は不動産屋の言い値で売却するつもりでいたのだが、どうもその値段が高すぎるように思えてきた。広くとも中古のマンションなので売りにくいのは分かるが、もう少し値を下げてもいいと話したが、どうも不動産屋が渋る。

そこでしびれを切らしたご主人が、ネットを通じて知り合った知人に売却を持ちかけたところ、買ってもいいという話になり、実際に会ってみて、更にマンションを見てもらい、その場で仮契約までした。

知人の弁護士さんが間に入り、契約書を交わして、金銭の授受を確認したうえで売買は成立し、ご夫婦は、その代金と貯金を取り崩して、都心の小さなマンションを購入した次第である。

その後のことだが、最初に仲介をお願いした不動産屋さんから、相当な文句が出たという。その文句の中で記憶に残ったのは「そんな安値で売買されたら、ご近所に迷惑です!」という科白。

ご夫婦は意味が分からず、その場を後にしたわけだが、私にはなんとなく分かる。その地域で不動産の売買がなされた場合、その売買価格が公示価格や路線価に影響を与える。安値で売買されると、当然にその地域の不動産時価が微妙に下がる。

それは、その地域に不動産を所有する方の財産価値を下げる。その意味でご近所迷惑なのだろう。だが、デメリットばかりではない。地価の下落は、固定資産税評価額にも影響を与えるため、固定資産税も下がる。ただし、負担調整という妙な仕組みがあるので、急激には下がらないが、それでも担税の負担は減ることは、十分なメリットだ。

それよりも、売買価格の低下は、仲介する不動産業者の手数料収入に大きく影響を与える。どちらかといえば、そのほうが文句の原因ではないかと思う。また不動産担保融資をしている金融機関にも悪影響となる。

そうやって考えてみると、空き家の売買が進まない理由の一面が覗けるように思う。もちろん、最大の原因は、その空き家の処分の決断をしない所有者なのだが、それでも不動産業者や金融機関の影響は無視できないように思う。

当然のことながら、その不動産業界からの広告収入が大きな割合を占めるメジャーなマスコミ、すなわち新聞などが空き家の報道をあまりしたがらない理由も見えてくる。

この話、実際に契約書等を見た訳でもなく、直接不動産屋から聞いた訳でもないのですが、妙に腑に落ちたものです。通常の不動産売買は、不動産業者間での取引が7割を超える。この時の売買価格を、業転価格といい、この相場が指標となる。

だが、今後は売買当事者、相互間の取引、すなわち相対価格が不動産相場の指標となるかもしれない。不動産業界が価格を高値誘導しているかのような現状では、そうなっても致し方ないと思います。

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破綻の先延ばしに過ぎず

2015-07-15 12:07:00 | 社会・政治・一般

多分、破綻させたほうが良かったはずだ。

債務危機に陥っていたギリシャとEUの間での合意が成立し、とりあえずギリシャの破綻は回避された。一番、強硬に反対していたドイツだが、他国及び金融機関からの批難が相次いだことから妥協したらしい。

これで金融市場の混乱は避けられ、欧米や日本でも株価は再び上昇機運に乗ったようだ。しかし、これで良かったと云えるのか私は大いに疑問だ。

ベルリンの壁が崩壊し、豊かな西側諸国に憧れたがゆえに、ギリシャはEUに加盟した。夢見たのは豊かな暮らしであり、それを叶えるためにとったのは公務員給与の引き上げや、年金支給額の引き上げであった。

だが、肝心要のギリシャ国内経済の活性化には失敗した。念願のアテネ五輪は、多額の負債を残し、海外からの投資は思ったよりも増えず、その投資さえも有効に活用したとは言い難い。

その癖、生活水準だけは西側諸国並みを求めたがゆえに消費過剰で、国内に資本が蓄積されないどころか、資本も人材も海外へ逃避してしまう。本来の観光資源を活かす努力にも欠けた。

ある意味、破綻は当然だし、破綻してからの再出発のほうが良かったのではないか。豊かな暮らしに馴れてしまうと、なかなかその生活水準を落すことは出来ない。実際、EUから呈示された緊縮案を受け入れたギリシャ政府に対して、既に国民は反発している。

政府が悪い、政府がなんとかしろ。

民衆が自らの責務を自覚せずに、その責任を政府に押し付けている国の未来は、決して明るくない。だから早めに破綻させて債務の処理の道筋をつけた方が、その再起は早いと思う。

その決断が出来ないのが、民主主義の辛いところ。いや、欠点といってもいい。誰だって苦しいのは嫌だ。だが苦しさを耐えねばならぬ時がある。それを主導するのが最高責任者の責務。しかし、選挙という人気投票に権力の基盤を持つ民主主義政権には、この決断が出来ない。

民主主義が最上の政治だなどと思い込んでいる方は、このギリシャの惨状をよくよく直視する必要があると思います。

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ピーターパン ジェームズ・マシュー・バリー

2015-07-14 12:13:00 | 

ディズニーが憎らしく思えることがある。

ピーターパンが生まれた背景には、幼児の死亡率の高さがある。これはイギリスに限らないが、乳児を含めて幼い子供たちが青年に達するまで生き残れる確率は50%に満たないことが珍しくなかった。

皮肉なことに、だからこそ当時の人類は多産であった。そうでなければ人類は生き残れなかった。腹を痛めて産まれてきた子供を亡くした経験を持たない母親は稀であった。

だからこそ、ピーターパンは生まれた。乳母車から落ちていなくなってしまったピーターは、妖精たちに助けられて生き延び、人としてではなく、半妖精として育ち、子供たちをネバーランドに導いて楽しい冒険をさせてくれる。

20世紀に入り、イギリスで戯曲として人気を博したピーターパンをアニメーション映画として世界中で大ヒットしたのはご存じのとおり。だが、敢えてウォルト・ディズニーが端折った場面がある。

妖精の女王にお願いして、このまま半妖精として生きる決断を下す前に、ピーターはママの元を訪れている。「あァ、可哀そうなピーター」と枕を濡らしながら寝言を呟くママに抱き着きたい気持ちに嘘はなかった。

だが、すでに公園で自由気ままに楽しく暮らすことを覚えていたピーターは、それを捨ててママの元に戻ることに躊躇う気持ちが強かった。迷いながらも、毎日、家の窓から入り込んで、ママの寝顔を見つめる毎日。

だが、ある日家に入ろうとすると鉄格子がはまっていて、その窓のガラス越しに見えたのは幼子を胸に抱くママの幸せそうな笑顔であった。ここに至り、半妖精であるピーターパンは生まれる。

ピーターパンの物語を必要としたのは、実は子供たちではない。ピーターパンの物語を子供たちに読み聴かせるお母さんたちにこそ、ピーターパンは必要であった。

ディズニー映画を否定する気はないが、ピーターパンは哀しき母親たちのためにこそ生まれたことは、どうか頭の片隅に置いていてください。

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論点ずらし、なのか

2015-07-13 12:31:00 | 社会・政治・一般

あァ、厭らしい。

突然に手のひらを返した韓国の横やりにより遅れた、今回の日本の世界遺産登録だ。如何に信用がおけない国かが、よく分かったと思う。それはともかく、おかしいのが我が国の政治家、とりわけ野党のセンセイ方である。

強制徴用だ、なんだと騒いでいるが、馬鹿じゃなかろうか。第一次世界大戦以降、戦争は国家総力戦であり、民間企業、民間人の強制徴用は常識である。あのアメリカなんざ、真珠湾攻撃を受けて戦争参加の意を明らかにするや、すかさず国内の兵站物資を生産できる工場等を、民需から軍需に切り替えさせて、国家の総生産力を戦争に投入している。

実を云えば、大日本帝国はそのあたりの認識が甘く、本格的な国家による民需から軍需への強制切替はミッドウェイ海戦以降である。しかも、当初は日本本土限定であり、とてもじゃないが国家総力戦には遠い。

なにやら国会では、言葉遊びを弄しているようだが、本質から目を背けた愚論でしかない。

更におかしいのは、我が国のマスコミ様である。外相会談での合意を反故にしてまでした裏切り行為を責める記事は、読売、産経や週刊誌だけで、朝日、毎日らは平然と、強制徴用の問題にすり替えようとしている。

私にはそうとしか思えない。いったい、どこの国の報道機関なのだ?

本気で日本の平和を望むのなら、海峡を挟んですぐの隣国の本音を伝えるべきではないのか。その隣国の実態を報じた上で、我が国の平和は、如何に守られるべきかを論じるべきではないのか。

私には、平和を守ることよりも、自分が良心的平和主義者であることをアピールするだけの、醜悪な愚行に思えてなりませんね。

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アベンジャーズ ザ・エイジ・オブ・ウルトロン

2015-07-10 14:42:00 | 映画

分かっていたって、試してみたい。

アインシュタインには分かっていた。核分裂の実現が、人類に膨大なエネルギーを提供するだけでなく、従来にはない凄まじい破壊兵器としても利用される。それを承知の上で、敢えて原子力爆弾の開発に加わった。

それが人類にとって危険なことも分かっていた。分かっていながらも、その開発に手を染めることを止めることは出来なかった。それは科学者の性というよりも、興味心に憑かれた人の性のような気がする。

分かっていても、動くことを止められないことは私にもある。勝てないと分かっていながら、相手に殴りかかったケンカ然り。届かないと分かっていたけど、それでも飛びつかずにはいられなかった垂直の岩壁でのフリークライミング。

多分私だけじゃないはず。分かっていても、やってみてしまったことは、誰の人生にもあることだと思う。

それをやっちまったのが、アイアンマンのトニー・スタークだ。未知の物質であるロキの槍から抽出した力を使って組み立ててしまった人口知能。人類を守るために役立つはずが、それとは逆の展開になる。

相変わらずの滅茶苦茶、ハチャメチャなお話だが、それでも二時間弱の時間、観客を飽きさせずに楽しませる手法は見事。大ヒットするのも当然の出来上がりなのだが、気になったのが控えめな3D映像だった。

アバター以降、爆発的に広まった3D映画だが、やり過ぎると気持ち悪くなる欠点があることが分かり、最近の3D映画はあまり特殊効果を強調しない。これが私にはありがたかった。

如何に優れた技術でも、それを使い、その効用を受ける人間のことを考えなければ、その技術は良いものとはならない。

ただね、この映画を観る限り、相変わらずトニーは反省していない。多分またやらかすぞ。そう思っていたら、既に続編の予告が最後に流れていた。まったく商売上手だね。

コメント (2)
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