なぜだか知らないが、日本のマスコミは無視しがちなのだが、近年韓国の自動車メーカーの躍進だ。もちろん以前から販売車数は多かった。だが当時は、安かろう悪かろうの典型的な車であった。
また、そのせいで日本では韓国車はまるで売れず、現代/起亜も販売を止めて、日本市場から撤退している。そのため、世界中でその姿を見ない街はないと云われる韓国車を日本国内で見かけることは稀だ。
だが、これは日本だけの特異な現象である。今の韓国車は少し前の日本車に匹敵する高品質を誇っている。問題は、なぜそこまで急激に韓国車が進歩したのかである。
原因は日本である。グローバリズムが日本経済に与えた影響は大きい。膨大な下請け企業に支えられた自動車産業は、英語にもなった系列(KEIRETUで通じるほど)に守られていたのは過去の話。
経営危機に陥った日産に乗り込んだカルロス・ゴーンは、真っ先にこの系列を無意味なものとしてしまった。安価な部品を提供してくれるならが、もはや系列にはこだわらなかった。
以来、トヨタでさえ系列企業に拘ることを止めてしまった。おかげで下請け企業は、元受の自動車会社頼りのぬるま湯から放り出されてしまった。この影響は凄まじかった。
この変化に対応できなかった下請け自動車部品企業は廃業を余儀なくされ、その跡地はマンションやテナントビルに変った。独自の販売ルートを求めて他業種に進出した企業もある。
もちろん弊害も大きい。安い部品を求めて海外に供給を頼った結果、品質管理が甘くなり、欠陥品を作ってしまったエアバック製造企業のタカダなんかは、その典型だと思う。
しかし、最大の弊害は技術の流出であったと私は考えている。かつての系列下にあった自動車部品製造会社の多くが、販売先を求めて海外に出た。それに目をつけたのが現代や起亜といった韓国の自動車会社だ。
現在、現代自動車が製造に使っている機械の多くが、日本のメーカーの最新機種である。またリストラされた日本人エンジニアを雇用して、人と物の両面から製造技術を大きく向上させた結果が、今の販売実績につながっている。
トヨタも日産も不満はあるようだが、自ら系列を排した訳だから文句も言えない。結果、昨年(2016年)の世界自動車市場における販売実績は、現代/起亜が776万台で5位である。あのフォードを抜いての実績だから、たいしたものである。
日本の自動車メーカーの危機感たるや、相当なものだ。なにせ、この後に控えているのは、中国の自動車メーカなのだから。今は国内市場に傾唐オているが、いずれは輸出してくる。その製造機械には、日本の企業の技術力、人材が相当に投入されているのは公然の秘密である。
だが、日本のマスコミは呆れるほど、この日本の輸出を支える主要産業の危機に無関心だ。韓国に不利なニュースならいくらでも報道する癖に、その逆は報道したがらない。
21世紀も中盤になれば、自動車メーカーの世界も、相当に様変わりしていると予測せざるを得ません。果たして、日本企業はどうなっているでしょうかね。
あったァ~!
思わず叫んでしまった。昨年の夏から始めている蔵書の整理の最中である。短編なのだが、どの本に収録されているのかが分からず、読みたいのに、読めずにいたのがSF界の巨匠、アーサー・C・クラークの初期の傑作「太陽系最後の日」であった。
日本においてSFは、当初は空想科学小説とされ、明治時代末には紹介されていたのだが、あくまで少年向けの娯楽作扱いであった。大人向けの娯楽としてのSF小説としての扱いは、早川書房が刊行した雑誌SFマガジンによるところが大きい。
その最初のSFマガジンに掲載されて、絶賛を博したのが「太陽系最後の日」という短編であった。これを再読したくて仕方なかったのだが、どうしても収録された短編集が分からなかったのだ。
はっきり言うが、このタイトル「明日にとどく」では分からない。早川書房は何を考えているのだ。他の短編も同時に読んだが、やはり「太陽系最後の日」が一番インパクトがある。
この素晴らしい人間賛歌に感銘を受けずには入れらない。避けられぬ破局を前に、人類が何を考え、どう行動したか。この一片の短編から、どれだけのドラマが編み出されるのか。それを敢えて封印して、短編に凝縮したクラークの慧眼には敬意を表さざるを得ない。
もし図書館や古本屋で表題の書を見かけることがありましたら、是非手に取って欲しいです。短編ですから立ち読みできます。(私だけかな?小説の立ち読みをするのは)
スーパーフライこと、ジミー・スヌーカが亡くなったとの報に驚いた。
フィジー島出身で、ハワイのボディビル大会で優勝して後、プロレス界入りであった。褐色の肌と、精悍な風貌、そして見事にビルドアップされた筋肉美が自慢のマッチョ・レスラーであった。
だが、最大の魅力はその跳躍力であった。ヘビー級のプロレスラーは、その重量ゆえに飛んだり跳ねたりを苦手とすることが多い。長身なだけならともかく、プロレスラーは分厚い筋肉をまとい、その上に脂肪の鎧をつけているようなものなので、当然のことである。
しかし、スヌーカは「スーパーフライ」の異名に違わず、桁外れの跳躍力を誇っていた。私の知る限りでも、コーナーポストに駆け上がり、およそ9メートルの跳躍をみせたヘビー級のプロレスラーは、スヌーカ唯一人である。
足から飛び降りるのではない。マット上に倒れている相手レスラーに向かって、身体全体をぶつけるように飛ぶのである。この技を受ける方も大変だが、トビ落ちる方のダメージだって相当なものだ。
場合によっては、マット内ではなく、場外に向けてのダイビングだってある。ジュニアヘビー級が多い、メキシカン・プロレスでは時折みられるが、ヘビー級レスラーにとっては大怪我をする可能性さえある危険な技だ。相当に浮「と思う。
ところが、このジミー・スヌーカは、ダイブしている最中に顔が笑っているかのように見える。どこか、神経が飛んでいるのではないかと思っていた。もっとも、こんな危険な技を平然とする豪胆さに似ず、スヌーカ自身は温和な性格であった。
実のところ、日本ではシングルプレイヤーとしてよりも、タッグ・パートナーとしての活躍が目立つ。相手は、あの超トラブルメーカーの超獣ブルーザー・ブロディである。
ブロディはエゴイスト揃いのプロレスラーの中でも、仲間からも嫌われるほどの自己中人間であった。タッグ・パートナーに対しても傲慢で、大学の後輩のハンセン以外では、スヌーカーくらいしか相手は務まらなかった。
これは、ブロディがスヌーカの実力を認めていたことに他ならない。我儘ではあったが、実力には自信もあったブロディは、自分が認めた相手でないと、味方でも敵でも許せない性分であった。ダメと決めつけたら、その超絶的なパワーで相手に見せ場を作らせずに、ボロボロにしてしまうほどであった。
しかし、スヌーカは単に見栄えのする筋肉だけでなく、瞬発力、スタミナも十分な実力を持っていた。その上、我儘なブロディに合わせての付き合いが出来る稀有な性格であったようだ。
実際、ボディビル出身のプロレスラーは、その筋肉美を見せつけるパフォーマンスを好むが、スヌーカにはそのようなことはなかった。むしろ抜群の運動神経と跳躍力を見せつけるようなパフォーマンスを好んだ。
ただ、残念なことに日本では、ブロディのタッグ・パートナーとしてリングに上がることが多かった。自分がナンバーワンでなければ許せないブロディのせいで、スヌーカはその実力を十分に出すことが出来なかった。
幸いアメリカでは、シングルで試合をすることが多く、その試合を現在はユーチューブなどで観ることが出来る。改めて、そのパフォーマンスのレベルの高さに驚かされる。
もし、ブロディのタッグ・パートナーを任されていなかったら、もっと実力を発揮できたのだろうと思うと、いささか残念に思います。なお、晩年は内臓疾患(癌であった模様)に苦しんだとのこと。謹んでご冥福をお祈りいたします。
意外であった。
槍といえば、世界各地で古来より使用された武器である。刺突を目的として武具であることは間違いではない。しかし、それだけではなかったことが、最近の研究により分かった。
日本でも古来より、槍は武具として用いられていた。だが、戦国時代の末になると、異様に長い槍が用いられるようになっていた。同じ仕様の槍を作ってみたが、長い柄がしなり、まがるため突き刺すには不便であることが分かった。
では、どうやって使ったのか。
在野の研究者が、いろいろ試してみて、文献と照合した結果分かったのは、意外な結論であった。戦国時代末、特に安土桃山時代において、槍は突くものではなく、叩きつけるものであった。
長さ4メートルを超える柄の先に付けられた重さ3キロ余りの鉄の矢先を、持ち上げて敵の頭上、肩口に叩きつけて倒す戦法であった。それも横一列に槍をもった十数名の兵士が、いっせいに槍を持ち上げ、接近してくる敵に叩きつける。
3キロを超す槍の穂先の鉄塊が、3メートルの高さから叩きつけられるのだから、たとえ甲冑を身にまとっていても、その衝撃は敵を倒すに十分な威力であることが、実験により判明した。突き刺すには不便な柄のしなりが、叩きつける際にはより衝撃を高める効果を持っていたことも分かった。
恐るべき集団戦法であるが、戦国時代が終わり江戸時代になると無用の戦術であるため、槍は再び短くなり、突き刺して攻撃する武具に戻っている。そのため、長い間、槍は刺突するものだと思い込まれてしまっていたのだ。
正直、非常に驚いた。槍は突くものとの思い込みが強かったからだが、表題の漫画では、その長槍を使っての戦闘場面が描かれている。この漫画の主人公である仙石は、斉藤家の家臣であったが、信長の軍勢との戦いで、この長槍の攻撃に叩き伏せられても死なず、捕虜として捕まる。
信長直々の捕虜の処断の時に、その猪武者ぶりを見初められ、秀吉の部下に配されたことにより始まるセンゴクも、既に雑誌連載では九州遠征まで進んでいる。が、なんといっても白眉は、この天正記ではないか。
歴史上名高い明智の裏切りと、秀吉のとんぼ返りによるどんでん返し。日本史でも指折りの転換期である。これまで歴史小説を始め、TVドラマ、映画、そして漫画でも描かれてきたが、この漫画が興味深いのは、最新の歴史研究に基づいて描かれているからだ。
光秀の裏切りにしても、最新の学説では、四国の長宗我部の影響を指摘している。決定的な証拠などないのだろうけど、研究が進むにつれて従来の定説が崩れつつあるのも日本史の面白さである。
私が知る範囲で、長槍を突くのではなく、叩きつける方法で合戦の場面を描いた漫画は、これだけである。現在、連載されている戦国時代を舞台にした漫画では、ダントツの面白さがあると考えている作品です。手に取る機会があったら是非どうぞ。
希望はなかったのだろうか。
3年ほど前から、私はあるオンラインゲームにはまっている。そのゲームのプレイヤーの一人の方の日記に驚いた。娘さんが急死したので、しばらくIN(ゲームに入ること)が出来ないとの。
直ぐに事情をある程度知っている方からの知らせで、娘さんが自殺したこと、新聞等のニュースに出ている事などが分かった。私はそのプレイヤーの方とは、まったく交流はなかった。ただ、かなりの高レベル者であるため、名前(ハンドルネーム)だけは知っていた。
報道によれば、12日午前10時半ごろ、さいたま市の中学校の校舎の下で、中学2年の女子生徒が唐黷トいるのが見つかり、死亡が確認されたとのこと。
女子生徒の遺書には、「いじめや家族間のトラブルではない。楽しいままで終わりたい」などと書いてあったということで、校舎から飛び降り自殺したとみられている。
正直絶句した。楽しいままで終わりたい・・・おいおいおい!!!
まだ14歳だろう。まだまだ楽しいこと、一杯あるぞと思うのだが、彼女には明るい未来は見えなかったのだろう。未来への夢や希望はどこへいったのだと思うが、彼女にはそんな展望はなかったのだろう。
哀し過ぎるではないか。
誰が言ったか忘れたが、子供には夢を見る時間がたくさん必要だ。厳しい現実を耐え抜いて、夢を実現する喜びを知る人間になって欲しい。だから、子供に夢を与えるのは、大人の義務だと。
親を責めるようなことはしたくなかったので、その方の日記には何もコメントを残さなかった。第一、親だけの責任とも思えなかったからだ。
今の日本は、子供たちに夢を与える社会であろうか。そのことは、漠然と私でさえ感じていた。一生懸命勉強して、いい学校に入り、いい会社に入れば幸せな人生が待っている。
そんな漠然とした人生の方程式が、既に崩れつつあることは、誰もが実感していると思う。高度成長時代は終わり、低成長ところか、徐々に衰退へと向かっている不安を感じているのが実情ではないか。
繰り返すが、これは親だけの問題ではない。日本政府の問題で済むことでもない。産業革命を基盤とした西洋近代文明全般に共通する問題である。ほぼ、全ての先進国が直面している問題である。
西洋近代文明は科学の発展により強烈なスタートを切った。科学こそが、文明発展のエンジンであった。その科学が停滞しているが故に、新しい展望が開けずにいるのが、今の世界である。
イスラムにおける反西洋主義や、宗教回帰、世界各地での民族主義の勃興は、自国優先主義であり、あろうことか資本主義の総本山ともいうべきアメリカにおいてさえ、グローバリズムを否定する大統領が生まれる始末である。
誰だって幸せになりたい。まだ14歳の子供に、未来への夢を抱かせない社会は、どこかおかしいと思う。現状を肯定して、自らを守ろうとする官僚的思考から離れて、未来への展望を夢見る社会を呈示できる政治が求められていると思います。