坊主憎けりゃ袈裟まで憎いのか。
日本のシンドラーこと杉原千畝・元外交官の名は広く知られている。しかし、杉原氏以上にユダヤ人救出に尽力した樋口季一郎の名は、何故だがあまり知られていない。
樋口氏は日本帝国陸軍の将官であった。少将時代、満州はハルビン特務機関長を務めていた時である。満州とソ連の国境の駅オトポールにて足止めを喰らっていたユダヤ人が数十名いた。氷点下30度の厳寒のなか、まるで畜舎のような無蓋列車に押し込まれてアメリカへの逃亡を望むユダヤ人たちの惨状に、樋口少将は心を揺り動かされた。部下の安江仙弘に命じて食料や医薬品などを提供して援助した。
当時、既に日独同盟は締結されており、ナチス・ドイツ政府のユダヤ人排斥政策は日本でも知られていた。だから満州国外交部はアメリカへの逃亡のために満州国通過を求めるユダヤ人に対して冷淡であった。しかし、樋口少将は人道的見地から満鉄の松岡洋右総裁(後の外務大臣だ)と直接交渉して、彼らを遠く上海まで特別列車で送り届けた。
当然にドイツ政府は激怒し日本政府に強硬な抗議を申し入れた。後の首相である東條英機総参謀長(当時)は直々に樋口少将を呼び付けて叱責したが、逆に樋口から人道の見地から許されざることだと反論されて納得。罰を与えることなく、そのまま帰任させている。
以降、樋口少将はドイツを刺激しないように、ユダヤ人の出国人数を記載していないので、正確な人数は分からない。しかし、アメリカに脱出したユダヤ人たちの報告などから二万人前後ではないかと推測(5千人説もあり)されている。これはシンドラー氏や杉原氏以上の実績である。
その後のことだが、樋口中将(昇進している)は不可侵条約を破って侵略してきたソ連軍と戦い、アッツ島玉砕戦や、占守島撤退戦などを指揮して奮戦。この戦いは終戦後にも続き、結果的にソ連軍の北海道進駐を防いだと云われている。
戦後、極東軍事裁判においてソ連は、樋口を戦犯として裁くことを要求してきた。しかし、アメリカに脱出したユダヤ人たちが動いた。オトポールでの出来事を忘れていなかった彼らは、恩人救済のためアメリカ政府に働きかけて樋口中将を戦犯リストから外させている。
杉原氏同様にユダヤ人救済に尽力した樋口氏、安江氏は、今もイスラエルでは讃えられている。
しかし、日本では極めて知名度が低い。
おそらくだが、その原因は彼が軍人であったからだと私は考えている。戦後の日本では敗戦の反省だとして、戦前を否定した。軍部を否定し、教育勅語を否定し、伝統の武道さえ否定した。なかには、日本語を否定し、ローマ字に変えろと主張した大作家様もいる始末である
外交官である杉原氏はともかく、現役の軍人、しかも将官であった樋口氏を褒め称えることは、軍人を褒め称え、戦争を否定することに反すると考えたのだろう。だから、世界中のユダヤ人から高い敬意を払われながらも、日本国内において樋口氏は戦後無名のままに貶められた。
事なかれ主義が蔓延する日本の役所は、寝た子を起こすなと、杉原氏まで黙殺していた。当然に軍人であった樋口氏は取り上げられることさえ嫌がった始末である。
でも、世界は忘れていなかった。映画「シンドラーのリスト」が公開されて以降、改めて杉原氏や樋口氏が耳目を集めた。もう一人、安江氏もようやく日の目を浴びるようになった。
杉原氏は教科書に載るまでに広まったが、軍人であった樋口氏は未だに日陰の存在である。教科書執筆者や大学の歴史研究者は、いったい何を考えているのかと言いたい。
戦争を否定し、軍隊を誹謗し、軍人を貶めれば、平和な世の中が実現するとでも思っているのだろうか。これだから、私は日本の戦後の平和主義者を信用できないのである。
戦後、戦争の反省を叫ぶ平和主義者の日本人が如何に黙殺しようと、杉原氏や樋口氏、安江氏が人道に基づいて行った行為は、決して色あせるものではないと私は確信しております。
理解できない人も多いと思うけど、殴り合いの美学は実在する。
私は喧嘩自体は弱かったと思うけど、非常に短気であったので、場数だけは少ないとは言い難い。もっとも大半は小学生の頃までで、中学生の頃には自制できるようになったので、喧嘩の回数は大きく減った。
とはいえ、中学の頃の喧嘩は、感情的な原因よりも、自身の立場を守るための喧嘩であることが増えた。避けられない喧嘩であるだけでなく、戦い方にも制限が加わって難しくなる。
子供の頃、米軍基地勤務のアメリカ人家庭のガキどもとの喧嘩は、とにかく勝てば良かった。だから小石を握り込んで殴ったり、後ろに回っての首絞めなども当たり前だった。
これが汚い手口だとは、あの頃はまったく考えていなかった。周囲でも、そんな喧嘩が当たり前だったので、それが普通だとさえ思っていた。もっとも転校して、閑静な住宅街に越したら、このやり方は普通ではないと知り、かなりビックリした。
小学校上級クラスくらいになると、汚い喧嘩は好まれないだけでなく、むしろ軽蔑を買うと知った。同時に、周囲から尊敬を勝ち取る様な、カッコイイ喧嘩があることも徐々に分かってきた。
その代表というか、模範例と言いたいのが、互いに殴り合いって決着を付ける方法だ。組み合うことも、蹴り技も、関節技も使わない。ただ、交互に殴りあうだけである。
喧嘩を暴力だと唾棄する方々には、決して理解されないと分かっている。でも、分る人には、あの魅力は分かるはず。己の拳だけで、相手に殴り勝つ。男なら、一度は憧れるはずだと信じている。
ただし、殴り合いに関しては、デカい奴が有利である。もう少し詳しく書くと、骨太で手足の長い奴は、間違いなく殴り合いに強い。単純に物理学的に有利なのだ。手足が長ければ、射程(リーチ)も長い。骨太の奴は自然と筋肉量も多い。
そして喧嘩慣れしている奴は、そのことを自覚していることが多い。厄介なことに、その時私と揉めたAが、このタイプであった。ガタイが良く、手足が長いだけでなく、親分肌で面東ゥの良い奴だけに、下手な喧嘩は危なかった。
元々は、Aの手下というか、使いパシリの野郎と、私がゲーセンで揉めたことが発端であった。その野郎はたいして強くない癖に、妙にえばる奴だったので、前から気に食わないと思っていた。だから、良い機会だったので、挑発して先に手を出させた上でぶちのめした。
すると親分格のAが乗り出してきやがった。放課後に呼び出されて行ってみると、もう逃げられない雰囲気であった。ここで逃げたら、自分は弱虫として卒業するまで苛められることは分かっていた。
さりとて、Aに勝てるとは思えなかった。しかし、喧嘩自体は逃げる訳にはいかない。私は腹をくくって、負けを覚悟の上で、バカにされない喧嘩をすることに決めた。
要はAを満足させれば良いのだ。だから、Aのパンチから逃げてはダメだ。顔面は避けておでこで受けるか、肩と胸でパンチを受け、隙を見てAにパンチを叩き込んだ。もっとも反撃のバンチは、まるで効かなかった。
なんとか3分は持たせたかったが、Aのパンチは重く、1分と持たずに私は地面に倒れていた。頭がガンガンして、とても立っていられなかったからだ。
満足げなAは「お前、なかなかやるじゃん」と余裕で、例の下っ端が倒れている私を蹴ろうとすると、「お前、俺の喧嘩にケチつける気か?」と凄んで、その場を収めた。私としては成功であった。
ボロ負けなのは確かだが、根性みせたことで、私はバカにされずに済んだ。その代償として、数日腫れ上がった無様な顔をさらすことになったことは致し方なかった。
思いっ切り私に殴り勝ったAは、私に好感を抱いたようで、仲良くとはいかないが、円滑な関係を作れた。男子中学生にとっては、この関係は非常に重要である。
これは負け惜しみではないのだが、ボロ負けした私もAに対してマイナスの感情を抱くことはなかった。私より喧嘩では格上のAは、拳だけでやり合ってくれた、これは私にとっても栄誉である。
もし人望あるAと、その仲間たちに袋叩きにされていたら、私は卒業まで惨めな境遇であったことは確かである。Aと対マンでやり合えたからこそ、私は立場を守れた。
男にとって、正々堂々たる殴り合いは、名誉の勲章にもなりうると私は信じている。
ところで、プロレスの試合では、意外と殴り合いは名勝負とならない。技と技の見せ合いに比べると、印象が良くない。ほとんどの場合、感情的なもつれ合いから、殴り合いになり、観客を無視したバトルに成りがちだからだ。
でも例外はある。それが2002年のドン・フライと高山の試合であったと思う。
わずか6分たらずの試合なのだが、ひたすらに殴り合いだけになった珍しい試合である。普通ならば陰惨な、あるいはツマラない試合になるのだが、この試合に限っては、お互いに殴りあうことしかやらず、それが返って鮮烈な印象となった稀有な試合であった。
ドン・フライはプロレスラーというよりも、総合格闘家としての性格が強い。ボクシング、レスリング、柔道をかなりのレベルで習得しており、なおかつプロレスを演じることも出来た。ちなみに元・消防士という職歴も似合い過ぎ。
相手となった高山も、日本人離れした巨体であり、試合根性もあるだけに、この試合は互いの意地が、良い意味で発揮されたからこそ、名勝負になったと思う。試合後の顔面崩壊した高山の映像はショックであった。同時に、すごいプロ根性を感じて、男として敬意を抱いたものです。
男と生まれたからには、こんな殴り合いで勝ちたいものだと思わせる試合でしたよ。
安倍政権が新たに国会にだしてきた入管法改正は、事実上の移民政策ではないかと思う。
もちろん条件は厳しいが、世界的な基準から判じてみると、移民政策そのものだと云わざるを得ない。でも、これは現状に対する追認としての性格を有する。
そう、すでに移民は日本各地に定住している。
予め断わっておくと、私は安易な移民政策には反対である。実際にこの目で、外国人が多く住んでいる地域の現状をみているので、このままではマズイと危惧しているからである。
その一方で、労働力としての外国人の導入は避けられないとも思っている。大企業や公務員はいざ知らず、経済の末端における労働力不足は、深刻な問題であることを痛感しているからだ。
ロボットやAIの導入で解決できると主張する方もいる。実際、既に試験的に導入が始まっているが、そんな高額な投資が出来るのは大企業などに限られる。今、本当に人手不足に悩んでいる末端の零細事業者に、そんな余裕はない。
そして断言するが、既に日本社会は外国人労働力を抜きにしては機能しなくなっている。多くの人が、その現実に気が付かないのは、彼ら外国人労働者が働く現場が隠されているからだ。
著名なテーマパークのレストランから出る廃棄食料を処理している現場、大手コンビニ・チェーンに供給されるお弁当の製造工場、産業廃棄物の処分場など、日本人、特に若い日本人が働きたがらない職場では、外国人こそが主力である。政府の公表している外国人労働者は100万人だとのことだが、パートなどを含めれば、更に上積みされることは確実だ。
安倍政権が出してきた入管法の改正は、事実上この現実を追認した性格を有している。もう、とっくに移民は始まっているのだ。
だからこそ、私は心配でならない。
外国人労働者が多い群馬県の太田市は、私が仕事で毎月訪れている。自動車部品の製造工場や、レストランで外国人を見かけないことは稀だ。太田市役所に行けば、日本語の案内表示の他に、ポルトガル語、中国語、ハングル、英語などが併記されている。
外国人労働者が定住している地域に行って、そこの自治会で話しを聞けば、いくらでもトラブルの話があることが分る。生活習慣の違い、言葉の問題、子供の教育など、地域に密着した問題が山積みなのが現実だ。
以前にも書いたが、無免許で運転する外国人は少なくない。交通事故が起きて、無保険なうえに、故国へ逃げ戻った加害者の話が新聞沙汰になったのは、この地域である。
だが、その一方で外国人労働者が多数いるおかげで、この地域は中小企業が元気が良い。間違いなく企業を活性化している。もっとも、外国人労働者は解雇も容易なため、失業も多い。そして言葉の問題から再雇用で苦労する。
一時期、彼らは自主的に帰国していたこともある。しかし、再び戻ってきている。やはり日本の方が仕事はあるからだ。また以前よりも受け入れる側も慣れてきていることも大きい。
でも、これは群馬県や太田市、大泉町など地方自治体、各地の小学校、自治会などの無償の努力があってこその成果だ。子供を学校に受け入れるための制度外の努力は、ボランティアで賄われている。地元の消防団では、若い日系ブラジル人が活躍を始めている。最初から上手くいった訳ではない。
多くの人たちの努力と協力があってこその地域活性化である。それでも問題は山積している。特に言葉の問題は大きい。大泉あたりになると、日本語がつかえなくても生活が出来てしまう。だからこそ、イレギュラーな問題が生じた時に困ってしまう。
今も、役場の方、地域の住人たちが困惑しながらも、定住している外国人たちとのコミュニケーションに尽力している。だからこそ、この地域には、日本各地の役所からの視察が絶えない。
どうしたら良いのか、日本各地で人々が困っているのは確かなのだ。もう、移民反対などと悠長なことを言っている段階ではなくなっている。特に外国人に対する生活保護の増大は、小さな地方自治体を疲弊させる。今も問題は次々と生まれているのだ。
安倍政権が入管法の改正に取り組んだことは評価したい。でも、まだまだ足りない。定住している外国人たちに、日本がどう対応するべきなのか。これは、もう直近の課題であることを認識して欲しいと思います。
基本的に人間と動物は敵対関係にある。
その数少ない例外が、愛玩動物と家畜である。家畜はさておき、愛玩動物となると、数種類しか存在しない。代表は犬と猫である。
もっとも猫は基本二種類しかいない。イエネコとヤマネコである。まずヤマネコは絶対に人間には馴れない。そして驚くべきことに、イエネコは古代のエジプトにしか居なかった。
旧約聖書に出てこない動物の代表が猫なのだが、これはイエネコが当時はまだエジプト限定で、オリエント社会にはいなかったからだ。エジプトのイエネコだけが、唯一人に馴れることが出来た。
それだけではない。イエネコは倉庫の穀物を食い荒らすネズミを駆除できる。この能力に目を付けたのが、当時地中海で船を使っての交易をしていたフェニキア人である。
この巧みな商人たちは、エジプト秘蔵のイエネコをどうにかして連れ出して、船に乗せてネズミ退治を任せた。幸いというか、奇跡というか、イエネコは揺れる船のなかでも酔うことなく航海に耐えられた。そして退屈な航海の最中、人とじゃれ合うことが出来た。
それゆえに、イエネコは各地で人気者となり、あっという間に世界中に拡散した。ヤマネコは世界各地にいるが、人に馴れるイエネコは全てエジプト原産である。そして今日に至るまで人に馴れるヤマネコは存在せず、イエネコは品種改良されて人の傍らで繁栄した。
もっとも社会性が強く人間を仲間と見做す犬とは異なり、ネコは人が近づくことを許している観が強い。やもすれば、ネコが主人で、人は下僕的な振る舞いをすることさえある。まァ、好きな人はこの猫の自由っぷりを愛するようだ。
地球上に数多いる動物のうち、愛玩動物であると断言できるのは犬と猫ぐらいなのが実情だ。牛や馬などはかなり頭が良いので、人間に懐くことはあるが、ペットではない。
人間が野生の動物を飼い馴らす努力を始めたのが何時ごろかは、定かではないが、7千年前の有史以前のオリエントではその努力に一定の成果があったようだ。しかし、今日に至るまで、人間に馴れ親しんだ動物は20種程度に過ぎない。
豚やヤギは家畜としては定着したが、一度人間の下を離れると、あっという間に野生化してしまう。野生の本能は、ほとんどの場合人間の努力を無効化してしまう。
表題の作品(絵本)は、ペット業者に騙されてアライグマを買ってしまった方の実話に基づくものだ。アニメ「あらいぐまラスカル」の影響もあって、愛くるしいアライグマを期待した著者だが、可愛いのは幼い時だけ。
成長に従い、すぐに野生の本能を甦らせ、噛みつくは、引っ掻くは、暴れるはと手に追いかねる獰猛ぶりを発揮する。多くの飼い主はこの時点で諦めて、動物園に寄贈(大半が断られる)したり、野山に放したりしてしまう。
野性化したアライグマは、その旺盛な食欲と適応能力の高さ所以に、日本各地で繁殖して農作物を荒らしている。日本原産のタヌキやキツネを追い払い、今は外来危険動物として駆除の対象となっている。
無責任な飼い主と、売れば後は知らんのペット業者の非道ぶりには腹が立つ。反対意見はあるだろうけど、私はこのような危険な動物は安楽死させるのが飼い主の義務だと思う。
ところで、表題の作品の著者は驚くべきことに最後まで面倒見ている。人間の与える餌のせいで、腎臓を害したアライグマは衰弱して初めて大人しくなった。最後は著者に看取られて死んでいる。
手足に沢山の傷跡を持ち、苦悩を抱えながら最後まで飼い通した著者の渾身の想いが作品には込められている。是非とも一度は読んで欲しいと思います。
子供の頃の友達には、喧嘩した後で仲良くなった奴が数名いる。
その一人にAがいる。仲良くなってからのことだ。夏休み、市民プールへ遊びに行き、休憩時間にお喋りをしている時、Aの右腕の上腕部分に噛み跡と思しき傷があることに気が付いた。なに?その傷はと問うと、Aが呆れたように「おめえが噛んだんじゃねえかよ」と、私を軽く殴る振りをした。
え!あァ、そうだ、そうだったなと答えたが、その直後に軽く身震いしたことは良く覚えている。夏だというのに、急に体温が冷え込んだ。そして思い出してしまった。
子供の頃、我が家には中型の茶色の老犬がいた。元々は父の知人の飼い犬であったが、その知人が亡くなり、奥様は郷里に帰るが、犬は連れていけないとかで、父が引き取ってきた。
実はその奥様は犬嫌いで、父の知人が亡くなってからは、どうもその犬を虐待していたらしい。それを見かねた父が、強引に引き取ってきたことは、後になって教えられた。
実際、我が家に来た時は、妙にオドオドしていた。母が近づくと、怯えたように伏せてしまい、母を困惑させていた。私や兄が近づくと、父の背後に隠れてしまう始末である。どうやら苛めていたのは、知人の奥様だけではなかったようだ。
犬の扱いに慣れていた父だけにのみ、その犬は心を許していたように思う。でも、世話焼きの母に毎日ブラッシングをされ、汚かった茶色が、輝く茶色に変わる頃には、兄や私にも心を許してくれた。
朝の散歩は早起きの兄で、学校帰りの夕方は私で、休日は父が昼間に散歩していた。犬が家に居る幸せってあるのだと思っていた。年の離れた兄が大学進学と共に家を出て都会で下宿となり、朝の散歩は私で、夕方は母の担当となっていた。
ただ、その頃は父と母の関係が良くなくて、家の中は重く、暗い空気が漂っていた。母はパートに出るようになり、学校から帰宅しても家に居るのは老犬だけだった。
もう十数年生きてきた老犬は、その頃は散歩も行きたがらなくなっていた。私は帰宅すると、家には入らず、老犬のそばでその日の出来事や、辛かったこと、嫌なことを話していた。時には老犬にしがみ付いて泣いたこともあった。
そんな時、老犬は動かず、じっと私に身を任せていてくれた。嫌がってはいないことは、尻尾をみれば分かった。偶に涙の痕を舐めてくれたこともある。あの時、老犬がそばにいなかったら、私は自殺していたかもしれない。
当時、学校でいじめの対象となり、訳も分からず、迫害された。教科書を破られたり、給食を捨てられたり、地味で厭らしい悪戯をされていた。主犯が誰だか分からないので、余計に面唐ナあった。
ちなみに冒頭のAは、いじめには加わっていない。身体が大きく、運動部でも活躍していたAは、いじめられている私を遠くから冷たく見ているだけであった。だらしない奴だと、私を見下していた。
その日、私の筆箱が三階の教室からほうり捨てられて、校舎の裏に落ちていた。誕生日に買ってもらった、お気に入りの筆箱はバラバラになっていた。なにかが頭の中で切れた感じがして、私は喚くように、吼えるように大声で泣き喚いた。
そこにAが入ってきて「うるせいよ」と私を小突いた。瞬間、私は切れた・・・
実はその先は覚えていない。後で聞いたら、まるで狂犬のようにAに向かっていき、噛みつくは引っ掻くはの大騒ぎとなった。まるで人間の暴れ方ではなかったらしい。
私が意識を取り戻したのは、病院のベッドの上であった。父と母が心配そうに、私をみていたことに驚いた。いったい何があったのか。訳が分からず、呆然としている私だが、母が抱き着いてきて大泣きしたので、私も釣られて泣き出してしまった。
父の運転する車で帰宅して驚いた。老犬がいない。どこにいったのかと訊いたら、母は「お前の腕に抱かれて死んでいたよ。お前が看取ったみたいだね」と言う。私はもう一度、失神した。
次に目が覚めた時、傍に居たのは兄であった。急報をきいて慌てて帰ってきたそうだ。兄の話だと、口を血だらけにした私が走って帰宅したこと。それを見て驚いた近所の方が、慌てて様子をみに来たら、老犬を抱きかかえて泣いている私を発見したこと。私は泣くばかりで、まともに喋ろうとしないので、警察を呼んだそうだ。
連絡を受けて帰宅した母は、自宅の庭に横たわる老犬の遺骸と、救急車に載せられる私を見てパニックになり、警官に取り押さえられて、私と一緒に病院に運ばれたそうだ。
結局、一週間ほど私は学校を休む羽目に陥った。何が起こったのか、さっぱり分からなかった。日曜日にAが見舞いに来て、腕の包帯をみせながら「お前、普段おとなしい癖に、切れると狂犬だなァ」と笑っていた。この時からAとは友達になった。
後でAから聞いた話なのだが、喧嘩の最中、私は犬のように吼えていたらしい。その後、飼っていた犬が同時刻に死んだせいで、私に「狂犬憑き」のあだ名が付いてしまった。そう、老犬はあの日の日中に老衰死している。
Aにも、親にも話していないが、あの喧嘩の直前、私の頭の中に犬の吠え声があって、その直後に私は切れて暴れ出したようなのだ。どう理解したらよいのか、未だに私は分からない。
老犬が私に替わって戦ってくれた気もするけど、それは私の手前勝手な解釈に過ぎない。その後のことだが、「狂犬憑き」のあだ名を頂いた私は、あれ以降苛められることはなくなった。
また父と母も、なにがあったのかは知らないが、いつのまにやら仲睦まじくなっていた。まるで、老犬が死ぬときに、すべての厄介事を持ち去ってくれたかのように。
・・・この話、関係者がまだ生存中であるので、フェイクかなり入っています。又聞きの話ですからどこまで本当なのか分かりません。ただ、A君の上腕には噛み跡が残っているのは確かです。ちなみに私=ヌマンタではありませんので悪しからず。