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8月5日の信濃毎日新聞に「曲がり角の学校登山」という記事があり、友人から読んでみろと言われる。「曲がり角」というタイトルに、いまや学校登山を実施する学校も減ってきているのかと思って読めば、違う。学校登山にガイドの付き添いが行われるようになり、その数が増えてきているというのが、記事の内容だ。
同記事によれば、2013年度には学校登山を実施した170校の長野県の中学校で、なんと137校、81パーセントもの学校が、ガイド付き登山を行っているという。驚く、呆れる。
「何に」って、教師はますます自己保身や、責任回避ばかりを考えるようになっているようで、情けなくはないか。また、「一般に1泊2日の行程をガイド1人に付き添ってもらうとやく6万5千円かかる」というのも、いかがなものか。
「ガイドが付くことで安全な選択ができる」とオントシ30歳の教師のコメント。これでは万一何か事故でも起きれば、「ガイドを付けていなかったからだ」と非難されるに決まっている。このごろ登山者にヘルメットの着用を奨励しているようだが、これに似て、同じようにおかしい。
山には日常生活では起こらない事故が潜在している。そのことを充分に考慮した上で、教師と生徒が力を合わせて、しっかりと学校登山を実施する、そのことに登山の意義があるのではないのか。生徒のみならず、教師も、鍛えられよう。安全登山は大切だが、それは要件であって目的ではない。これまでも、学校登山における事故はあった。過失もあった。100パーセント安全な登山など望むべくもない。また登山という行為はそうだからこそ、達成感や克服感を識ることにもなる。先生、しっかりしなくちゃ!聖職の時代の先生に嗤われる。
「主人公は先生と生徒。ガイドが全面に出過ぎると、学校がガイド任せにしてしまう」って、この引き方は、あくまで「道案内人です」と言いたいのだろうか。それにしては、「地元の山の歴史や自然に精通」していると目され、それなりのガイド料を受け取って、安全登山を少なからず担保しているはずの存在ではないのだろうか。
山小屋「農協ハウス」とキャンプ場の営業に関しましては7月9,13日のブログをご覧ください。昨日、鹿の捕獲はありませんでした。