
雨はきょう一日降り続けるようだ。昼になっても気温は上がらず、6,7度を維持したまま変わらない。未舗装の山道をきょうも来ると、道路には幾筋もの水の流れができてかなり通行を難しくしていた。今年の梅雨は長いとの予報、その通りなら道路状況はさらに悪化すのは間違いない。
峠に出てからも、舗装された道路には何か所か危険な穴ができていて、取り敢えず注意を惹くために周囲にアスファルトの破片や枯れ木を置いて来た。
捕らわれの鹿も雨に濡れている。小屋の入り口からは直線距離でも300㍍以上あるだろうに、さすがに敏感で、人の姿を目にする度に群が動く。週末までは安心していていいと教えてやりたいくらいだが、森の中でも絶えず似たような緊張は続いていただろう。最近よく耳にする「安心安全」などとは無縁だ。
さすがに空腹には勝てないとみえて、草を食む様子も見られる。そういう時も多くは群を崩さないが、中にはその中に入らず、1頭だか2頭で今も必死で脱出口を探すのを止めようとしないのもいる。
昨日、集団で行動する動物は群の存続のために、自己犠牲の可能性について呟いた。その後の帰路の山道で、その見方はあまりにも人間的で、鹿たちにそんな殊勝な気持ちなどないだろうと、自分の考えを再考してみた。
人もそうだが鹿にも個性があり、人や車に対しても、鹿が見せる警戒の仕方は一様ではない。中には猛者もいて、車が横を通り過ぎても逃げないような鹿もいる。そういう鹿の中には危急に際して、とにかく危機突破のために果敢な行動に出るかも知れない。例えば有刺鉄線を切ったり、檻の金網に激突を試みたりというふうに。
それは極めて自己保身の行動なのだが、例えばその鹿によって破られた金網が結果的に群を助けることにも繋がるということはあるだろう。それが実相であって、それを自己犠牲などと言うのはあまりに情緒的だと考えを改めることにした。
牛もよく群をつくり、その群の中心になるのも当然いる。そういう牛たちが塩場で見せる行動には、しかし相手を慮るような態度はない。弱肉強食で、強い牛に脅かされ退くことはあっても、それは譲り合う行為とは違う。
群は同族だったり、別の何かのきっかけがあってできたかも知れない。ただそれは、牛が、鹿が、あるいは他の群れをつくる動物が、単独でいるよりか多数でいる方が安全であることを本能的に知っていて、それだけの理由で群を構成しているのであり、その群れのために自らの身を犠牲にするというのは話としては面白いが、脚色の謗りを受けかねないだろう。
それにしても、有刺鉄線を支柱に結びつける際に使うあの16番のステンの針金を、まるでペンチで切断したように切ってしまう方法を知りたい。
雨音は激しくなるばかりだ。本日はこの辺で。