
灰色の冬空が拡がっている。たまにはこういう寒々しい空を見るのもいい。新しい年が始まり早くも6日、遠くを走る車の音がして、少しづつ世間が騒々しくなってきた。
昨夜は夢と現が混乱して、どこぞかの氷瀑へ行く夢を見ていた。前日もそこを、なぜか登るのではなく、下るのに行き詰まり、もう一度翌日、つまりきょう再度挑戦するために夢の中でその策を一心に考えていた。
次第に現実が勝り、夢が後退して、正気が戻ってきたら、可笑しかった。もう、そんなことをする気などさらさらないが、今でもやればできるような簡単な数メートルくらいの滝で、アイゼンもあれば、当然バイルやピッケルの類は用意していただろうし、ロープの確保もあれば、何の問題もないことだった。
ここら辺りはしかし、まだ夢と実際が重なったままの混沌とした状態が続いていた。そしてようやく薄ボケた霧が晴れ、暗い部屋の中にいるのが分かり完全に覚醒した。
夢だったと分かった途端、重い荷物など担いで、あんな寒くて陰険な場所へ行かず、きょうもいつもと変わらぬ何も予定のない日々を過ごせるのだと納得できたら、今の自分の年齢も一緒になって平凡な日常が戻ってきた。
炬燵の虜囚などと時に自嘲したりもするが、病の床に臥せたものが健康を有難がるように、何もないことが、無口な幸福を教えてくれていた。しばらく闇の中で神妙な気分を味わった
考えてみれば、山でもそうだ。山スキーを滑らせながら、何時間もの単調な行動の繰り返しに何か快感とか楽しさがあるわけではない。少しでも体力の損耗を惜しみ、できるだけスキーを雪面から離さず、踵も同じように極力スキーから上げずに進む。雪面が荒れていればリズムが狂う。1メートルが、5メートルがずっと目前に立ちはだかるのだ。
やっていることに何の展開もストーリー性もない。ひたすら目的地へ着くために時間と体力を消化しているだけで、豊富な湯量が湧き出る温泉で味わう快感と比べたら、正に真逆な行為を続けているようなものでしかない。足元を見つめながら歩く時間に比べたら、一息ついて周囲の景色を眺めるゆとりなどその100分の1程度以下のものだろう。
にもかかわらず、こうして幾つかの切れぎれの断片に過ぎない映像、盛んに写真を撮れとせがんだ風景が、時間の経過の中で価値を帯びてくる。足の疲労、苦痛を忘れたわけでは決してない。それでもあの何もない空白に近い時間が、妙に懐かしさとなって甦ってくる。
この巣ごもりの日々も、やがてはそうなるだろうか。単調な登行で目にした幾コマかの映像を思い返すように、この無聊の続く日常も、いつかそう見えて欲しいと期待している。
本日はこの辺で。