満月の光にてらされながら散歩してから、もう数日が経つ。昨日もいつもの散歩に出て、主のいない極寒の澄んだ夜空がそのことを教えてくれた。いつの間にか「いいお月夜」は過ぎていたのだ。その代わり、オリオン座を中心に冬のダイヤモンドはよく見えていた。
冬の季節も今頃になると、中天にあったオリオン座は少し西に移動し、北に向かって瀬澤川橋を渡る手前まで来ると、両側の杉の林の間から北斗七星が見えてくる。冬の間は主役を張れない春の星座でも、夜の散歩には欠かせない相棒、かつてのHALのような存在だ。橋の架かる狭い渓にはいつまでも雪が残っていて、川音に乗って寒さが伝わってきた。
散歩は1時間半ほどになるから、終わるころには月が見えるだろうと歩いていた。そしたら思った通り終盤、卯ノ木の集落を下り天竜川の堤防に出た所で東の空に浮かぶように現れた。すでに半分近くまで欠けてしまった月は、矢をつがえたばかりの弓のように弦は上方に少し膨らんで見えていた。(1月23日記)
昨夜、偶々懐かしい歌「冬の星座」を聞いて、曲の美しさにも、詩の格調の高さにも深く、ふかく感動した。飾り気のない澄んだ声と、その調べが、煌めく星空を語る詩の言葉と一体になって、実際に冬の星座を眺めているように見せてくれた。
惜しいことに、子供のころに歌っただけだったから、「木枯らしとだえて」と、この出だしの部分や曲全体は覚えていたが、これほど素晴らしい詩だったとはついぞ知らずにいた。よく思うことだが、歌は教えてくれても、なぜか教師は詩の意味までは教えてくれなかった。そういう小学生唱歌が実に多く、勿体ないことをしたと今になって思う。星の狩人かんとさんも感動したという「無窮をゆびさす北斗の針」なんて、今なら分かる、胸に迫り、痛いくらいに。しかし、とても子供には理解できないだろう。
この歌がアメリカ人によって作曲され、原詩は安っぽい恋の歌などとは、参考までに英語の歌詞を読んでみるまで全く知なかった。そして、呆れた。言葉もそうだし、内容がありふれて、しかも単純すぎてまったく野生、牛が吠えているようなものだ。これで女性を口説けるものなら、日本には和歌などは生まれなかっただろうし、いや民謡、歌謡曲も。
よくぞ、この陳腐なジーンズのような歌詞、叫びに惑わされることなく、素晴らしい裃級の詩に仕上げてくれたものだと改めて感心し、その思いを抑えきれずに何人かに電話した。もっと他にも伝えたい人はいたけれど、酔って電話をするのは憚れると堪えた。
こういう名曲は飽きるまで聞かず、ときどき美しい冬の夜空を眺めて帰ってきた時に、ウイスキーには水を加えずにこの曲を注いで、眠る前の一時を過ごしたいほどだ。
本日はこの辺で。