
Photo by Ume氏
風の音で目が覚めた。結構、荒れた天気だ。雪雲の切れ間に青空が見えていても、西山は灰色の雲に隠れて見えない。山はまた雪だろう。
どこのスキー場も今冬は雪不足に悩むことはなさそうだが、肝心のスキー客がさらに激減してしまったようだ。正月など、リフト待ち30分が当然のようだった半世紀前と比べたら、ブームは去り、多くのスキー場が存続の危機にあるという。最盛期には60万の人が足を運んだという御嶽山の某スキー場は、4万人だと。
それにしても、あの異常とも思えるスキーブームは一体どうして生まれ、そしてどうして衰退してしまったのだろうか。’60年代から’70年代にかけての高度成長期と重なり、このころに自動車の所有率が加速した時代でもある。それが後押した面もあっただろう。あのころは冬になれば、県外者の車の殆どがスキーを車の屋根に乗せて走っていた。
車ほどではないにしても、スキーや関連する用具は高価だった。2台目の板や金具、靴などは給料の2ヶ月分もしたのを、会社の組合を通じて月賦で買った。身に付ける物も高かった。リフト代もそこそこしたし、日帰りならまだしも宿泊が一般的だったから、スキーはゴルフよりもっと金のかかるスポーツだっただろう。
年越しでスキーをして、成人式の休みもまた北信の馴染の民宿に来ていた。宿泊者が一杯で土蔵にに寝かされたのもこのころのことで、年間では30日くらいは滑った。
ところが、それほど熱中した割合には肝心のスキーはあまり上達せず、仲間内でも誰かがとびぬけて上手くなったということはなかった。その間、スキー学校の門を叩いたのは約1名、しかも一度だけだった。あれも、みな独りよがりの「オレが病」のせいで、「滑る」と言わず「舞う」と言っていた。
高価なスキー用具、宿泊代や交通費などの費用、渋滞の待っている道路、そしてなかなか上達しない技術。それと、指導方針が定まらない全日本スキー連盟(SAJ)のせいもある。「外足荷重」だと言ってみたり「内足荷重」だと真逆のことを言ってみたり、一般のスキーヤーを競技スキーやデモ選の選手並みに仕立て上げたいのか硬直した教本、指導内容。また、用品、用具のメーカーも、ブームに悪乗りして値段ばかり高い商品をスキーヤーに強いてブームの足を引っ張り、今また同じ轍を踏もうとしているように見える。
スキー場から人が去ったと聞けばやはり寂しい。あの雪深い北信の小さな村も、今では都会から訪れるスキーヤーもなく、民宿などをやったころをあの人たちはどんなふうに思い返しているのだろう。
本日はこの辺で。