入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     ’22年「冬」(18)

2022年01月25日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 前夜から降った雪を気にしながら、昨夜も散歩に出た。そのせいで、いつもよりか15分ほど余分に時間がかかったが、それでもやはり冬の「冴ゆる」星空を眺めながら歩くと気分が澄んだ。
 雪の積もった広々とした開田に出てからも案じていたほど道には雪がなく、そこを横切り広い道路が交わる短い坂でつい気を抜いた。足を滑らせ、危うく転倒しそうになったが、何とか堪えた。
 この山裾を走る道路は、時間にもよるだろうがそれほど通行量が多いわけではない。たまにしか通らない車よりか雪を気にしながら歩いていたら、いつの間にか瀬澤川の橋を渡り、眺望の良くなる緩やかな坂道まで来ていた。呆気なかった。その間にもいつものように「奇(くす)しき光」を放つ星座を仰ぎ見、「ものみないこゆるしじま」を、遠くに点在する家々を見て感じた。

 こういう時、次々と浮かんでくるとりとめのない断片を拾い、他人事のようにあしらい歩くのは山と似ている。あるひとつのことを、じっと考え続けることはできないし、やらない。そういえば、思い付きで瞑想を続けようとしても、後からあとから雑念が湧いてくるような状態と似ている。
 しかし昨夜は少し違った。ずっとひとつのことを考えていたというより、しばらくすると催促でもされるようにそこへ回帰し、同じことに拘った。先日、80歳という高齢を押して冬の天狗岳に登り、生命を落とした人のことだ。
 80年という年月は短くはない。その生涯がどうであったかは分からないが、それなりに苦楽を超えてきたと思う。そして辿り着いた終局が、あのようになった。冬山に登ろうとするくらいだから体力はあっただろうし、里にいたなら、余生を楽しみ送ることがまだまだ可能であっただろう。温泉のような、もっと安気な楽しみ方も考えただろうに、敢えて厳冬の山へ行き、そこで果ててしまった。
 確かにあれは事故死である。ただ、布団の上であっても、山の雪の中であっても、死は事故である。そう遠くないいつか、それが訪れることは確実で、あの人の意識の端にもそのことはあったと思う。高齢であったにもかかわらず危険を孕む冬山を目指したのも、自分の残された時間、その使用価値を考えた上での判断だったろうと、そう勝手に想像するしかない。その上で本人は、自分の最後の時を従容として受け入れただろうと、せめてそういうふうに考え、それ以上は止めた。
 
 知る人ぞ知る「サイゴマデ タタカフモイノチ 友ノ辺ニ スツルモイノチ 共ニ逝ク」、享年26歳の若さで北鎌尾根で遭難死した松涛明の遺書の一部である。死に直面し、こういう明確な自覚をもって死ぬということと
、いつ死んだか本人も分からないような最後と、もしも二者択一を求められたら、前者だと応えるつもりでいる。
 本日はこの辺で。
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