
思い出ついでに、きょうは山にちなんだ二人の女性について呟いてみたい。
戦後間もなく、伊藤正一氏が、北アルプスの中央に位置する三俣蓮華小屋の経営を譲り受け、併せて湯又からの新しい登山道・伊藤新道に挑戦していたころの1冊の写真集がある。その1枚に、掘立小屋のような壊れかけた小屋の前で、「黒部の山賊」などと呼ばれた荒くれ男たちと一緒に写っている一人の若い女性がいた。顔はよく分からないが面長で美人ということにしておきたい。背丈もそれなりにあって、セーターにズボン、髪は長め、突然に現れても、現在の世に充分通用する女性だという気がした。
どんな事情か知る由もないが、あんな山の中に、それこそ掃き溜めに鶴となって、人相のあまり良くない男たちと並んで写っていた。あれから何年が過ぎたのか、きっともう故人となってしまっているだろうが、それでもその写真の中に入っていければ、「こんにちは」ぐらいの声をかけてみたいと思ったものだ。
いやいや、呟きが突拍子もないことになってしまったのだが、そんなことを考えてしまうほど、あの写真の女性には不思議な関心を覚えた。
ついでながら、その写真集とは別に、伊藤氏の書いた「黒部の山賊」という本がある。F破氏に進呈してもらったのだが、あるキャンパーに貸してあげたらそのままになってしまった。本はまた入手できても、貸した相手には回復し難い気持ちが残る。
もう一人、この女性も背丈は高い方だったと思う。場所は上高地辺りだったがその正確な場所をどうしても思い出すことができない。縦長のザックを背負い、颯爽として、一緒にいた男女の山仲間と越年の登山に向かうところのようだった。頭にはバンダナをして、上衣は着ずにこの人もセーター姿だったような気がする。厚手のタイツがスラッとした長い脚に似合っていたことが目を惹いた。印象的だった。
むこうが橋を渡った所ですれ違った。それは間違いない記憶だ。こっちは一人で山から帰るところで、たったそれだけのことなのにそれでもなぜか覚えている。それが不思議だ。特別に目立つような恰好ではなかったはずだが、それでも目立ったのだ。顔立ちなどはもう覚えていないが、この人も美人にしてしまおう。
まるで通勤のように気負いが感じられず冷静で、しかしその山姿からはそれなりに経験を積んだ人の雰囲気が伝わってきた。屏風や奥又、滝谷へ行くのだと言われても驚かなかっただろう。
他愛もないそれだけの話だ。女性を仲間に加えて山へ行ったことがないというわけではないが、それでもこの人たちに勝る印象を残した人は少ない。
ゆきずりの花の宴さびしくもたふとしや 檀一雄
あの邂逅は宴でも何でもない。それでも、記憶は正確ではないかも知れないが、つい、この言葉を思い出した。本日はこの辺で。明日は沈黙します。