
高遠城址は桜で知られ、牧場への往復でその時季も近くを通る。それでも、遠くから眺めるだけだけにして、立ち寄ることはしない。花については楽しみにしている場所が他にあって、城址の花の楽しみ方はこの15年そんなふうで変わらず、それで満足している。
この城が、織田信長の長子の信忠が率いる軍勢に陥ち、その際の守る側の壮烈な戦いぶり、それに続く約500人の敗死、特に仁科の五郎盛信の最後については、小さいころからよく聞かされていた。1582年の春まだ浅きころ、3月2日のことだった(「伊那高遠戦国史 戦記蹂躙」長谷川正次著)。
北信から高遠城へ駆け付け、織田方からの降伏の勧告を退け戦い、長く地元の人々に記憶された信玄の5男仁科の五郎は「信濃の歌」では「仁科の五郎信盛も」と歌った気がする。それはさておき、三峰川を挟んだ南の小さな尾根に、地元の人たちが遺骸を埋葬したと伝わる場所があり、その口碑にちなみ「五郎山」と呼ばれている。いつ植樹されたものか、そこを訪ねた時は赤松の大木が目を惹いた。
旅は急ぐ。その高遠城落城からわずか10日も経たない3月11日、武田家当主勝頼は織田と徳川の軍勢に追い詰められ、夫人、子の信勝とともに山梨県笹子峠の近く、現在の大和町でついに自裁している。徳川家康の命により、武田家終焉の地には「景徳院」が建てられた。ここにも実際に2度ほど行って、二人のことを偲んだ。
旅はさらに早まる。信長はほぼ天下統一を確実にして、しかし、その栄光はあまりにも短かかった。何とそのたった3か月後、6月21日に本能寺の変が勃発し、「是非もなし」と本当に言ったのかどうかは別に、戦国の英雄は燃え盛る炎の中に苛烈な一生を終えた。
何とも群雄らの呆気なさである。明智光秀はあえなく、落人狩りの手によって命を落とし、後には「三日天下」と言われた。そんな中で、岡山の高松城を攻撃中の羽柴秀吉は急遽大軍を引き返し、明智光秀を討ち、その後には太閤にまで上り詰め、「天下人」となった。大阪城を建て、検地だとか刀狩りをやり、さらにバテレン追放、朝鮮出兵などといろいろやったようだが、それも本能寺の変からたった16年間のこと。あまりに忙しい。
かつての主君信長の妹である市が浅井長政との間に生んだ子、淀を側室にして、50歳を越した身ながら嫡男・秀頼を生ませ、その幼子の将来を案じつつ1598年、「露と落ち露と消えにし我が身かな浪速の事は夢のまた夢」の辞世の歌を残しその生涯を閉じた。日本史上最高の出世を果たしたと言ってもよい人にして、今生を去るに当たってはこの感慨である。それに対して、月並みなことは言わない、言えない。
日向ぼこをしながら短い旅を続けていたら、早くも日が西の方へと落ちつつある。
本日はこの辺で。