
木曽の馬籠は2005年、岐阜県中津川市になってしまった。島崎藤村の代表作「夜明け前」の書き出し「木曽路はすべて山の中である」は、もはや信濃の一地域を語る話ではなくなったのだ。住民の選択であるから、生活する上ではその方が良かったのだろうが、しかし歴史や文化は、あるいは郷土の誇りは、その際にどう評価され、どのように考えられたのか。信州へ帰って来たばかりだったから、この越県合併についての経緯もよく分からなかったが、恐らく、多くの県民は複雑な感情を味わっただろう。
程度の差はあっても、誰しもが郷土へ寄せる思いはあるはずだ。「遠くにありて思ふもの」と言ったあの人でさえ、ふる里への思いは強かったと思う。それが帰ってみたふる里の予想外の冷たさに、裏切られたような気持を味わった。結果、たとえ異郷の地で乞食になっても、帰る所ではないとまでうたわせてしまった詩人の故郷への深い失意は、それだけ望郷の思いが強かった証だろう。
祖国となれば、また思いはさらに一段と強まる。シアトルの飛行場で、尾翼に日の丸の旗を描いた飛行機を目にした時には、異国で思いがけずも知人と出会ったような心強さを感じたことを覚えている。海外に生活して自国の良さに気付き、より保守的な傾向を強めた人の話をたまに聞いたりする。
半世紀ほど前に、ロシア民謡が盛んに歌われた時代があった。歌声喫茶が流行ったころだ。東京へ出て、初めて連れていってもらった居酒屋の名前はロシアの有名な川の名前で、店名を示す看板はロシア語だった。その後、よく冷やしたウォッカの味を覚え、飲み、正体もなく酔ったりした。そして、ロシア民謡の哀調のある調べと、あの国の男たちの犯した野蛮さをそのせいにした。
ウクライナで起きていることをTVで見たり聞いたりしていると、火事の原因が放火で、誰が犯人で、どうしてという説明ばかり延々と聞かされる。しかし、今燃えている火をどうやって消すかという話が、さっぱり聞こえてこない。経済制裁も結構だが、結果苦しむのはもっぱら一般の国民だろうと考えていたら、その国民の間からも、批判の声がして来た。南無、熱風への慈雨とならんことを。
ところで、大国アメリカのあの feeble old 大統領はこうした国際情勢がひっ迫している中でも、週末の休暇を過ごすために夫人を伴い、嬉しそうにヘリコプターで田舎へ飛んでいってしまった。キューバ危機の時のアメリカの対応を知らないはずはないだろうに、と思う。国連なども、盲腸以下。
何年か前、入笠の山小屋が燃えた時、消防車が何台もけたたましいサイレンの音を上げてやって来た。しかし、肝心な水の確保ができず、建物が焼け落ちるまで見ているしかなかった。あのときのことを今、似たように思い出している。
本日はこの辺で、明日は沈黙します。