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Photo by Ume氏
上伊那郷土史研究会が毎月発行している「伊那路」という40頁ほどの冊子がある。最近届いた今月号に諏訪の御柱(おんばしら)についての興味のある記事が載っていた。題して「高遠藩上伊那郷『諏訪御柱大引廻し記録』」。
今年は7年に1度の御柱年である。その「天下の奇祭」、諏訪人たちは今からすでに熱く燃えているだろう。大の大人たちが、熱狂、狂乱、正気の沙汰とは思えないほどに御神木に群がり取り付き、担ぎ、吠え、坂を下り、川を渡り、市中を引き回す。木遣りを唄うことになっているある人は、いい声を出すためにわざわざ喉を壊してその日に備えるのだと誇らし気に、そして嬉しそうに語ってくれたものだ。地元の企業は当然休みになり、御柱の通過する周囲の家々は一生懸命接待に励むと聞いている。
ところがその御柱の祭りに江戸時代、驚くなかれ高遠藩の城主や藩士、そして上伊那郷の住民も人足として多数参加していたことを、先述した「伊那路」によって初めて知った。思えばその以前の鎌倉の時代から、諏訪と高遠は血縁で繋がっていたこともあり、そういう付き合いがあったとしても不思議ではない。
面白いのは、3代将軍家光の腹違いの保科正之までは、異を唱えずにこの祭礼に参加していたようだが、1636年城主が鳥居氏に代わるとそれまでの慣例を拒否しようとし、そのために時の幕府が裁定し、続けることになったという。次の内藤氏では参加者の人数は半分に減って、それでも86人とあるから、高遠城主の率いる騎馬行列が祭りに華やかさを添えたようだ。
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話はまたいつものように飛躍するが、そもそも諏訪の祭神タケミナカタが諏訪大社に祀られるようになったのは一体いつのことだろう。と思うのも、どうも信州一之宮・諏訪大社は、接ぎ木された木のようなもので、元の木は古事記に登場するタケミナカタなどとはまったく無縁の、もっと土俗的な宗教だったような気がする。ミシャグジ信仰などはその例で、特定の人格神に対する信仰というよりもっと原始的で、自然崇拝に近いものではなかったかと思う。あるいは狩猟と関係するかも知れない。
円忠という人がいた。鎌倉から室町時代にかけての役人で、諏訪明神の化身と言われた大祝(おおほうり)の家系に連なり、彼は古事記も「旧事本紀」も読めた。「諏訪明神絵詞」作成の中心人物で、この人が、"接ぎ木"に大きく関わったのではないかということだ。
呟き足りないことが多いが、本日はこの辺で。