あの程度の雪でも、東京は交通網に大きな影響が出たようだ。あれが雪で済んだからまだ良かった。もしも案じられている直下型の大地震にでも襲われた日には一体どうなるのか、夥しい数の住宅や、林のように蝟集する高層ビルを写した映像を眺めながら思ったものだ。
中でも、限られた人にしか手の出せない高層住宅は、狭い東京の空をさらに狭くしているようだが、砂上の楼閣にならねばいいがと思う。首都移転の話も、今では横に押しやられたというよりか、話題にもしない政治家たち。
雪はこの辺りでも15センチほど積もり、今も大分残っている。昨日は早朝6時からの除雪作業に遅れてはいけないと5時前から起きていた。小学生の通学路の確保のためで、それにしてもいつごろからこういう事が行われるようになったのだろう。
子供を大切にすることはいいことだが、同時に、あの程度の雪で通学できなくなるというのはいかがなものかと、少々首をかしげたくなる。それに、雪掻きに出る人たちの中には80歳近く、いやそれを超えた人もいる。むしろ、この人たちの方が心配になる。
また遠い昔の話をしてしまうが、われわれのころは県道の交通量も少なく、車をよけて歩く他なく、専用の通学路などなかった。長靴に穴が開けば藁を詰め、それでも元気に通ったものだ。
あの頃の寒さは今の比ではなく、多分入笠並み、いや、そこまでは行かなくとも芝平くらいと言ったら間違いないだろう。何しろ、毎朝6時から校庭でスケートができた時代だ。今では考えられない。
家に帰れば、それから裏山に行き橇遊びや、近くの田圃や水路でスケートをした。戸外で遊ぶことは今よりかもっとたくさんあったと思う。
だから何か言いたいというわけではないし、そもそも今の子供たちのことも知らずに軽々にいってはいけないが、それでもどうだろう。やはり、70年近く前の、戦後も10年経つか経たないころ、あの頃に少年時代を過ごせて良かったと思っている。
教室のダルマストーブに使える石炭は専用バケツ6分目、それが燃え尽きれば後は足踏みをして寒さに耐えた。あかぎれ、しもやけなど当たり前、授業が終われば用務員室に行って、五右衛門が釜ゆでにされたような大釜から、煮えたぎる熱湯を片腕を戦争で負傷した用務員のSさんから貰い、それに水を入れて温度を調整し、掃除をした。よく絞らないと、濡れた床はたちまち凍った。
1クラス50人近かくいて、確か机は二人用、男女で座った。意地悪なM子さんが隣で、消しゴムを貸すのを嫌がったのを覚えている。教師のH先生はゲンコツの雨を降らしたが、それでも皆が懐いた。
年に一度あるかないかの雪掻きが、また古き昔を思い出させてくれた。今週末上に行くかを明日までに決める。かんとさん、通信ありがとう、是非続けなはれ。本日はこの辺で。