
ハバキ当て付近のクヌギの林を振り返って
近頃は散歩にも出掛けず、終日家の中にこもったまま過ごしている。相変わらず睡眠は9時間を超える日が多く、入浴も湯治気分で複数回入っている。
土曜日のDue Euthanasia、これは日本語にしにくい。二人安楽死、連れ添い安楽死、同伴型安楽死、心中型安楽死・・・、いっそデュオ安楽死ではどうか。ともかくこれについては、あれだけで済ますつもりはなかったが、ことがことだけに迂闊なことは言わぬほうがいいという声もどこかから聞こえてきた。
もう半世紀以上前に読んだ文庫本、確かツルゲーネフだったと思うが、自殺について、生から死への過程で肉体的苦痛を伴わなければ、人はもっと自死を選ぶだろうと書いてあった記憶がある。そうだろうな、というより、当然だと思った。
そこで「安楽」な死ということになる。長年連れ添った者同士が、重篤な病の進行により次第に人格崩壊する。それを避け、その前に充分に現状を考え、理解し、手を取り合って死ぬ、結構で幸福な最期と言えるではないか。
そもそも自死について法令がいかように定めても、する時はする。それでもこの安楽死の場合には第三者、医師の手を借りるため必要な要件がある。例えば、二人どちらもが望み、同意していること。それを一人づつ別々に別の医師が確認する。回復の見込みのない病に二人とも罹っていること、苦痛の回避も大事な要件である。
こうした他国の制度、先例を、高齢化社会を迎え、宗教的縛りの比較的少ないわが国の国民が、よく検討し、研究してみることは必要だと思う。
500円の保険料値上げがどうしたこうしたと国会で論争するのもいいが、終末医療、それに費やさねばならない膨大な費用の観点からも、目をつむっていてはいけないと思う。もちろん、どんな状態であっても、生きたいと願う人の気持ちを尊重することが大前提、ではあるが。
アメリカでは10州以上が安楽死を認めているし、スイスもそれができる。ベルギーもそうだ。さらにそれを一歩進めて、オランダのような安楽死(Due Euthanasia)の方法すらも実行されるようになった。当然、こんな終末への向かい方は誰でもがとはいかぬも、世界に拡大していくだろう。個人にとって生きるか死ぬかについては、最も根源的なそれぞれの権利である、と言って反論する人がいるだろうか。
生に尊厳があれば、死にも尊厳がある。穏やかな終局を誰もが迎えたいと思っている。
本日はこの辺で。きょうから題名を「春」にしました。