岐阜/医大生が指導する明光義塾長良教室&芥見教室

医大生が個別指導する全国でも珍しい塾が明光義塾長良地区、芥見地区に登場。山県市、美濃市、関市からも通塾されています

★夏の思い出

2023年07月30日 15時36分50秒 | 日記

 

★遠い昔

 夏期講習も本格的に20日からはじまり7/29,30,31はお休みですが8月から通常に始まります。高校野球夏の甲子園出場校も決まり岐阜市岐商を応援していましたが残念でした。昨年は芥見教室にいた森君がエースで獅子奮迅の活躍をしましたが今年は同じ森君がエースでしたが残念でした。私の高校も3回戦で今治西に負けたようですが決勝まで行ったのですから仕方がないでしょう。決勝は新居浜市の隣の川之江高校が決まったそうです。知らない人が多いと思いますがティッシュのエリエールと云えば多くの方は知っていると思います。その工場のあるところで愛媛県の東の端になります。

 今日は夏期講習についてはNO.7と総括編を書きましたので思うままに少し青春時代のことを書いていこうと思います。プロフィールの画像が変わりましたが気が付かれたでしょうか。「ワインと檸檬」というタイトルに変わりました。2年程前に刊行した本です。初めてのエンターティメントの物語です。機会があれば読んでみてください。

 私は大学時代に恋人はいました。多分一緒になるだろうと考えていました。彼女は1学年下でしたがサークルの文芸部に入ってきました。たまたま寮と私の下宿先が近くでよく話しながら帰りましたがある日合宿が近くなった時バスと衝突をして入院をせざる得なくなりました。結果合宿には参加できず私は参加しましたがそれ以外はほとんど彼女の病室にいました。彼女の病室が私たちのデイトの場所に変わってしまいました。
 彼女も怪我が完治し色々各学校の読書感想会などに一緒に参加しましたがに名古屋大学で小林多喜二の「蟹工船」の話になり私は「小説ではない」と云ったものですので凄い攻撃を受けました。実際そういうプロレタリア文学というジャンルはあるのですが純文学とはかなりかけ離れていました。しかし、そう言い切ってしまうのもどうかと今は思っていますが小説としての一つの世界は次代の反映の写しだったような気も致します。でなければ日本が戦争に参加し米国の原爆が落とされるまで続くのですから憲兵との拷問の凄さは明らかです。それはそれで当時の時代だったのですがあまりにも攻撃が私に集中し「個人攻撃は卑怯よ」と叫んだ彼女は睨みつけるような目で周りの学生たちを見ていました。中京大。、愛知大、淑徳大。すみれ短大、名大などの学生を前にして叫んだ彼女に一瞬場は静まり異様な雰囲気になり何時しか一人二人といなくなり私たちは二人で互いに何も話さず帰ってきました。私たちはよく喧嘩もしました。非常に気が強く個性が強かったせいか京都女子付属高校出身だったと思うのですがよく「かんにん」と言って八重歯を見せて笑っていました。当時はスマホもないものですから写真も残っていません。ただ残っているのは彼女が書いた数編の詩だけです。先日OB会に行った時東海地区で作った鯱門文学に掲載されていました。その後彼女はサークルを辞めることになり暫くは距離を置くようになりました。私が再び彼女に出会ったのはテストで単位を落とし追試験を受けることになったのですがノートを借りたことでまた再び付き合いが始まりました。

 あの時私たちは「結婚」ということを意識していましたが結局「思わせ振りしてかんにん」と言っていました。別れる直前私たちは大垣城で長い時間をかけて話をしていました。何を話したかよく分からないし覚えてはいません。ただ大垣城の石垣や2月の寒い時期でしたのでベンチに腰掛けてコートを身に纏っていたことは覚えています。私は当時は煙草を吸っていましたのでただ吸うことしか記憶はなかったです。多分ここできちんと話をしないと別かれることになるのではと思いましたがもう最初に出会ったようなインパクトは互いに持っていなかったような気がいたします。あの時強引に彼女を連れて帰ることは出来たとは思いますがどうしてしなかったのでしょうか・・・。また彼女の実家も近くでしたのでそれでは今から行くからいいいかと了解を取り付けなかったのでしょうか・・・。今もって分からない何か壁があったのです。その壁は何だったのかはよく分かりません。私が転勤を繰り返し岐阜支店に赴任して初めてその謎は知りました。

 大垣城で別れ駅まで行って彼女は養老線でホームの向こう側に渡り私に向かって手を振っていました。ホームに下りの列車が入り暫くして列車は駅のホームを離れていきました。定刻にホームを去った列車の向こう側には養老線の電車の姿もそこにはもう見えませんでした。これが彼女との最後の別れとなりました。私は四国に帰り住宅メーカーの高松支店に入社しましたが当時は月賦販売の住宅メーカーNO.1で御三家と云われ住宅は大工さんから組織的に積み立てをして残りを融資をしていく会社だったのですが住宅ローンが出始めたのはそれから数年の後になります。そして仕事に夢中に励んだ日々が続きました。

 その年の夏、彼女が突然高松まで来ました。今のように携帯はないですから住所を頼りにアパートまで来るのは大変だったと思います。私は慌てて自分のアパートに帰りますとそこには久しぶりにみる笑顔を見せる彼女が居ました。私たちは大垣城で別れましたが電話では繋がっていたのです。会社勤めをしながら私は瀬戸内文学の同人誌に参加もして当時は免許もなかったので車に乗っていませんでした。ですから彼女を送ってあげることを出来なかったのですがホテルまで歩いて送ったことを覚えています。部屋では寄りを戻すとか結婚するとかの話はしませんでした。ここまで来たのにどうして私は受け入れなかったのだろうかと思います。「愛のセレナーデ」という曲をギターで弾いてあげました。この曲は彼女のために作った三部作からなる曲なのですが彼女も初めて聞く曲なので喜んでいました。途中目頭を押さえているのも確認しましたが私は最後までギターを弾きました。彼女のために作り本人を前にしているのですから途中で止めるわけにはいかないです。彼女は曲が終わった時泣きながら私に抱きついてきました。私たちは本当によく泣きました。最初から最後まで会えば泣いていた記憶しかありません。翌日ホテルから会社に電話がり会いたいという話でしたが私は会いませんでした。交換の女性は私たちの遊び仲間の女性でしたので状況はよく分かりました。外出してるときはメモをくれるのですが電話番号でした。それでも私は掛けることはしませんでした。高松に来て3日目の午後彼女から電話がありました。交換の女性は私に繋いできて「話してあげてくださいね」といって電話を回しました。しかし、何も喋れなかったのです。彼女は泣いていました。嗚咽を漏らしていましたしまた私も泣いていました。もう外出している社員さんがぼつぼつ帰って来ていましたが私には話す元気はなかったのです。彼是20分ぐらいでしょうか、机に座って何も喋らなかった。交換の女性は交換室から飛び出して私の傍に来て背中を叩くのですが私たちは何も喋らずに電話を切りました。「さようなら」と彼女が言った後、私は「うん」としか言えなかった。だらしない男だとあの時は今になってもそう思います。だから私の小説の中には彼女はよく出て来ます。

 それにしてもどうして私は結婚を求めなかったのだろうかと思うのですが結局は彼女が拒否したのです。最初から最後まで私は彼女を求めていました。しかし、何故か彼女は自分で身を引いたのです。高松に来たのはきっと彼女が別れをきちんと言いたかったのかもしれません。何故なら私たちは私の汚いアパートの一室で「愛のセレナーデ」を弾いた時寄りを戻すと言ってくれればそれで解決したのでしょうが私も声を掛けなかったのは後悔をしていますが、彼女に何があったのかよく分かりません。ただ空虚な時間を過ごしたのは事実です。その後卒業した彼女は結婚をしたということをサークルの仲間から聞きました。私と仲が良かった後輩とでした。しかしそれから何十年と経ちますが彼女の噂は何一つ聞きません。私がまた岐阜に戻ってきたことも知っているのでしょうか・・・。今更会っても仕方がありませんが苦い青春時代の思い出です。きっと彼女も私の名前ぐらい検索していると思いますので自分のことを書かれていることぐらい知っているでしょう。感受性の強い女性でしたから尚更です。青春とは酷な試練です。

 今日はつまらない私の大学生活を卒業しての話を書いてみました。ブログももうGooで15年ぐらい書いています。その前はライブドアで5年ほど書いていましたのでかなり長く書いています。書くことは余り苦にならないので続いているのでしょうが今日は夏期講習の谷間でしたので私の夏の思い出を日記を書いてみました。

<今日の言葉>
「最後まで努力をするってのが、本当の生き甲斐ではないでしょうか」
              手塚 治

ビリーバンバン ♪さよならをするために

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<詳細>
http://mm-homepage.com/dozan/

長良教室 058-210-1730
芥見教室 058-244-0170


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