★高校生の個別指導
平成時代があと二日もすれば終える。そして新しく令和という時代に入り昭和・平成・令和と三つの時代を経験することに何となく夢と希望を感じ、反面年老いた感も無きにしも非ずで寂しさも感じます。
1989年、平成元年です。この時私はもう岐阜に来ていましたし一番人生の輝いていた時代かもしれません。神田町交差点から少し東に行った東金宝町2丁目の5階建てのビルにいました。全館自社ビルでしたので5階が空いていました。そこに進出していたのは能力開発センターさんでした。その関係で金宝町の8階建てのビルや関西の建物を建築させていただいたわけですが確かにあの時私たちは2×4住宅を主体に頑張っていました。あの頃まだあまりツーバオフォー住宅が盛んでなかった時代に私たち岐阜支店の成績は万年赤字垂れ流しの店でしたが全国NO.1になり鼻高々になったものです。ちなみに県下のシェア率は25%でした。これは驚異的な数字です。そんな会社でした。三井ホームが会長で私どもが副会長という構図でした。
その後私は無理がたたって体を壊し東京や京都の転勤拒否で結局岐阜に来てから目を掛けて頂いた財務本部長が名古屋に帰って来た時に会社を辞めるという事態になりました。当時は奥さんから呼び出され何とかと説得されましたが結局は体が言うことを聞いてくれず泣きながら謝ったものです。
岐阜支店時代には弟も39歳で亡くなり兄弟は私一人になりました。しかし、体を壊し原因不明のまま実家に帰りぼんやりとしていましたが従姉が名古屋でエステサロンを手広くされていましたのでそこで腰を据えて骨を埋めようと考えていましたが人生上手くはいかないものです。結局従姉の旦那と折り合いが悪く辞めてしまいました。半年ほど通ったかと思いますが営業畑でしたのでFCの室長をしていました。その時知ったのが明光義塾だったのです。あるオーナーの教室長がエステシャンということでやってみたいという話でした。しかし、この話も資金的なことで駄目になりましたが私が結局明光義塾に惹かれ始めたわけです。1999年3月17日東京本部でFC契約を交わしました。
平成時代の三分の一はサラリーマンの時代でしたが得たものも多くありましたが失ったものも多くありました。ですが独立して加盟金やエリア購入資金、チラシ代、折り込代や什器備品で随分資金的にきつかったのを思い出します。チラシを200万円分2か月の間に打たされました。さすがに種類は大きなチラシ二種類ですが狭い地域ですから二日に一度は入りますと地域の方は仰天したのではないでしょうか。しかし、いくらチラシをまいても生徒が集まらない、個別指導は勉強のできない子が行く塾という常識が当時はあったのです。誰も来ない、電話もないそんな日々を教室の床に寝ころんで天井を見つめながらぼんやりしていたことを思い出します。
それから20年が経ちました。いい時もあれば悪い時もあり時代は集団塾から個別指導塾に変換してきました。今集団塾が悪いとは言いませんがその塾さえ個別指導を事業部として存在させています。平成の残り三分の二は明光義塾と共にでありました。当時長良教室は環状線の裏側にあったのですが場所が悪く現在のところに移転を致しました。芥見教室はオープンからずっと同じであります。教室の広さは当時の倍の広さになっていますが場所は変わっていません。
平成の時代に個別指導が一応の沸点まで来たように思います。しかし、ここから先がどうなるかは誰も分かりません。みんな手探り状況です。そんな中で高校生に力を入れてきたのは明光義塾としては本意ではなかったかもしれませんが私どもは有限会社 銅山という会社(会社の由来は http://mm-homepage.com/dozan/ に書いてあります)で今期からCIを導入致しました。CIとは急速に多様化する企業のサービスも企業の独自性を出すためにできたものです。 DOZAN というすでに何度も使用していますが正式に使用していくことにいたしました。この地は斉藤道三が有名ですのでどうも誤解されることが多いので変更いたしました。登記簿上は変わりません。
この20年の中で一番困ったことは社会問題にもなっている少子化であります。その為に学校の閉鎖統合が多くまた塾業界も再編成の嵐が激しく吹いてくるのです。私は少子化が言われ始めた頃から高校生に力を入れたいと思うようになりました。それは自分が大学受験に失敗したということが根底にあることは事実でありますが塾を始めた時『次代のエース』を作ろうと思ったのです。世に役立つ生徒を送り出そうと考えました。優秀な生徒も遅れている子も入塾テストはありませんから誰でも真面目に取り組んでくれれば入塾は出来ます。ですからそう言う中からみんな精一杯頑張っているわけですが時代の波に飲み込まれないように人間形成にも力を入れてきました。勉強しなくても生きていける、勉強して頑張って生きていく人もいる。それはそれぞれの考え方ですからどちらがいいかとは言いえませんが少なくとも頑張ったことを力として将来に生かして欲しいと思っています。
凡そ個別指導塾を始めて講師不足に泣かされました。昔は一度広告を出せば4,5人は集まってきました。しかし、最近ではそうではなくあまり歓迎されない職種になっているようです。ですから私共の講師の先生方は『次代のエースは君だ!』というスローガンのもとで志を同じくして頑張っているのです。
少子化は方向を変えなくてはいけなくなりました。高校生を指導する、講師がいない中でどうしていけばいいのだろうか・・・。これが問題でした。長良教室は場所的にはまだ恵まれていましたが芥見はそう言う講師不足のことは全く考えませんでしたので地獄を見た気が致します。いくら金を使ったか分からないです。ハローワークや人材センター、家庭教師などいろんなところ入会してきた生徒のご兄弟にさえお願いして手伝ってもらいました。なりふり構わず生徒に迷惑を掛けれない、講師がいなければ教室を閉めるしかないというところまで来ましたが、ある時ネットの中の方が家庭教師で良ければご紹介しますと言って紹介してくれました。当時は私立大学も医学部の方も一緒でした。ならば医学部の方ということで応募をお願いしたら20人ほど集まりました。その中で4人だけ採用させていただきました。家庭教師を個別指導に使うというとんでもないことになったのですがそれでも危機はチャンスに変わってきました。あの塾は高校生も指導出来るということが地元では徐々に浸透していくようになったのです。一般的に高校生を指導しているのは映像授業か学校別の集団塾化であります。受験生は大学コースに合わせてありますが個別で高校生を指導するということは採算ペースに合わないのでほとんど実施をしていません。しても英語、数学ぐらいです。しかし、私どもでは医学部やセンター試験90%以上の生徒、元教職の先生たちが対応をしてくれています。ですから全科目実施が出来るようになったのです。英語・数学は当然ですが物理・化学・生物、現文・古文・漢文・日本史・世界史・地理・現社・小論など全てのことに対応が出来るようになりました。
私の考え方は間違ってはなかったと思います。現代ビジネスにジャーナリストの田中圭太郎氏の記事を二本ご紹介したいと思います。
A判定でも落ちる https://gendai.ismedia.jp/articles/-/63635
指定校推薦の「語られざる問題」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64141
少子化の中で指定校推薦枠が非常に多くなってきた。しかし、上位普通高校では推薦枠をあっても使用しない。それは全体のムードが壊れるからということですが今年は推薦枠が大幅に増えてきました。それだけに残りがセンターというわけですからきつかったわけです。ですからA判定でも落ちるという推論に達するわけです。
このようにこれから令和の時代に入ってきますと益々その傾向は強くなってくると思います。早くから高校生対応を実施してきました大学実績を見れくれれば幸いです。http://mm-homepage.com/dozan/
そんなことで平成の時代は体を壊して致し方なく教育の世界に足を突っ込みましたが新しい個別指導を常に模索しながら小・中・高の一貫授業に特化していこうと考えています。平成を顧みて一体何をしてきたのだろうかと思いますが毎日生徒の顔を見て話が出来るのが楽しみです。まだまだやりたいことは山ほどあります。益々個別指導塾として先頭を切って走りたいと思います。
<今日の言葉>
『はじめに終わりがある。抵抗するなら最初に抵抗せよ。歓喜するなら最後に歓喜せよ。途中で泣くな。途中で笑うな』 むのたけじ「たいまつ」
<今週のYouTube>
森田童子の『チチよハハよ』を選びました。この歌に随分癒されたものです。
5月生募集開始!
テスト対策生募集!
<詳細>
http://mm-homepage.com/dozan/
長良教室 058-210-1730
芥見教室 058-244-0170