三冊同時進行中(≒そう読み進んでいっていない)。
「ファインマンの手紙」 リチャード・P・ファインマン著 ミシェル・ファインマン編 ソフトバンククリエイティブ 2006
(厚い本。時々思い出しては 拾い読み。繰り返し読み。)
編者は 養女のミシェルさん。
リチャード・P・ファインマンは1918年に生まれ、1939年にMITで学士号を取得。
この本の章立て(手紙の収録)は その1939年から始まる。ファインマン、21歳。
「まんぷく」の始まりは 昭和13年の大阪、主人公・福子は高等女学校を卒業する。
(↑と思うのですが。第1週のあたり、よく見れていない。)
福子の姉・咲も ファインマンの妻・アーリーン(1942年に結婚)も 同じ病を得ていた。
「須賀敦子の手紙 1975―1997 友人への55通 」 須賀敦子 つるとはな 2016
この頃えいやっと「だわへし」片付け中。書籍関係もそんなに決断(選択?)して大丈夫?ってな程に進行中。ここの古本流通ルートに乗ると話はスムーズだなというところを見つけ(てしまっ)たので 書籍「だわへし」進む進む。で 何書こうとしているかというと 「つるとはな」(ムック) も そのルートに乗せ(てしまっ)た。その時目についた「須賀敦子の手紙」を 単行本の方で読み返している。片付け心、複雑。
須賀敦子の手紙が忠実に美しく写真に撮られて本に納まっているのですが 一部活字に起こされているものもあり、手描き横書きだったものが活字縦書きになって 続くページに添えられていたりする。すると同じ内容のはずなのに、横書き→縦書きの変遷のどこかでフォーマル感が付加されてしまったようなフワフワ感が発生。私信からセミフォーマルへ変えられてしまったというか。違和感とまでは持って行けない何かを感じつつ読む。
「こころ(ヨコガキ×こころ)」 夏目漱石 ゴマブックス 2008
DVD「ベロニカとの記憶」からの流れ。
「こころ」。漱石の「こころ」(1914年)なのに ヨコガキ化されたものは、受ける印象が実に現代!? どうしてそう感じる?
だから此所でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。
だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。
学校の授業が始まるにはまだ大分日数があるので、鎌倉におっても可し、帰っても可いという境遇にいた私は、当分元の宿に留まる覚悟をした。
学校の授業が始まるにはまだ大分日数があるので、鎌倉におってもよし、帰ってもよいという境遇にいた私は、当分元の宿に留まる覚悟をした。
けれども個人の別荘は其所此所にいくつでも建てられていた。それに海へは極近いので海水浴をやるには至極便利な地位を占めていた。
けれども個人の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な地位を占めていた。
2行目がゴマブックス表記。
此所でもただ
ここでもただ
鎌倉におっても可し、帰っても可いという
鎌倉におってもよし、帰ってもよいという
其所此所にいくつでも
そこここにいくつでも
極近いので
ごく近いので
旧仮名が新仮名に改められる、それ以上の踏み込みであるわけですが
旧仮名が新仮名に改められる、それも踏み込みであるわけでして ごにょごにょ。
だんだん、ウメサオタダオのサンショウウオサイン入り手紙に近づいていくようで、面白い。