■これまでも当会のブログで報告してきたように、1997(平成9年)年10月1日の長野新幹線の開業による碓氷峠の信越線廃線をきっかけとして1999年(平成11年)3月4日に松井田町(現・安中市)により設立された碓氷峠交流記念財団が管理する施設で、最近トラブルが続発していますが、今回の峠の湯の火災発生により、この財団と、それを管理する立場にある安中市が、財団の本来の活動目的を忘れて、単なる鉄道遺産食いつぶし組織になり下がってしまったことを典型的に物語っています。
この財団の活動は、2006年4月に行われた安中市との合併選挙の直後までは、非常に活発でした。この財団を設立した松井田町が安中市と合併した年の2006年(平成18年)には、横川―軽井沢間の鉄路復活に向けて同年10月14日に、横川から軽井沢までの試運転に漕ぎ着ける寸前まで行っていました。この試運転で碓氷峠廃止10周年の2007年秋の開業に向けて準備は着々と進んでいたのでした。ところが、これにストップを掛けた人物がいました。
その人物こそ、2006年4月23日に合併後の安中市長に就任した岡田義弘氏です。彼は就任後、旧松井田町の保有する関係団体のうち、黒字体質で規模も大きなこの財団に目をつけ、その利権の大きさを認識していたからです。
■そして財団の評議員会のメンバーらに圧力をかけ、2007年3月13日に開かれた財団の評議会で、桜井正一理事長の理事再任案を否決させたのでした。同財団では評議員会だけが理事を選任できるため、桜井正一氏はこのとき理事長を解任させられたのでした。この背景には安中市の岡田義弘市長が桜井理事長が進めてきた鉄路復活計画に難色を示し、自ら財団を牛耳ろうという狙いがあったのでした。
その後、めでたく財団の利権を手に入れた岡田市長とすれば、自分の思い描いた鉄路復活をきっちりと実践することができるはずでした。しかし、その後の財団の運営を見ると、鉄路復活とは縁遠い状況が続いたのです。
■当会のブログでも報告したとおり、2007年の秋に一部の廃線区間で電線の盗難事件が発生し、同年10月17日に安中市が警察に被害届を出しました。ところが、この最初の盗難事件の後、安中市は再発防止策を協議しませんでした。
すると、今年の5月連休前に、財団の職員が鉄路沿線の草刈作業をしていたところ、架線があったはずの場所に架線が見当たらず、調べてみると、長さ11kmにわたって電線類がごっそり盗まれていたことが判明し、平成25年5月28日に、またもや警察に被害届を出すハメになったのです。
■これに先立ち、昨年7月24日午後4時40分頃、同年3月30日までに安中市が公金約1400万円を投入して修理を終えたばかりの動態保存用の電気機関車EF63の点検作業中に、3名の職員が安全のために車輪を固定する車止めを外し忘れたまま機関車を動かし、約40m先の分岐器に乗り上げて脱線させ、その衝撃でボギー本体やエアパイプ等も破損させるという事故を起こしました。そのため、夏場の書き入れ時にトロッコ列車が運行できず、EF63の体験運転の予約も取り消さたりして、さらに車体や施設の修理代などの出費も余儀なくされました。
こうして、鉄路復活どころか、せっかく旧国鉄から、軽井沢まで電気機関車が走れる設備を含む資産をそのまま引き継いだにも拘らず、新生安中市は、2度にわたり窃盗団に電線を盗まれたのでした。この事件は、我々市民をはじめ鉄道復活を願う全国にファンをガッカリさせました。
そうした最中で、止めを刺すように起きた今回の峠の湯の火災事件は、市民の貴重な財産を管理する財団と、財団の持ち主であり、財団を指導する立場の安中市がいかにずさんな組織であるかを証明したのです。
■8月1日付の東京新聞の報道によれば、岡田市長は記者の取材に対して「再建する方針を決めた。焼けなかった棟が使えるか診断して対応を決めたい」と話しました。また、同日付の上毛新聞の報道によれば、岡田義弘市長は「将来的に軽井沢ヘトロッコ列車の運行延伸を検討しており、新しい観光戦略の拠点となる施設として復元に努めたい」と対応を説明しました。
財団のトップ人事に岡田市長が口出しをした結果、平成19年3月12日に開かれた財団の評議会と理事会で、当時、軽井沢までの鉄路復活に奔走していた理事長が解任されてしまいました。そのため、鉄路復活計画の遅延が懸念され、事実、その後の推移をみれば、その懸念通りの展開になっていることが分かります。
岡田市長が新聞記者の取材に対して、「将来的に軽井沢へトロッコ列車の運行延伸を検討している」と発言した真意が、本気でそう思っているのか、それとも峠の湯の突然の火災事故で動揺して、そのようなリップサービスを言ってしまったのか、きちんと真意を確認する必要があります。
二枚舌で鳴らす岡田市長だけに、この真意確認はきちんと行いたいと思います。
【ひらく会情報部・信越線復活問題研究取材班】
※参考情報
■岡田市長が財団人事に口出しする前月の状況(日本鉄道保存協会のブログから)
**********2007年2月11日
【ふたたび碓氷峠鉄道文化むらへ。(上)】
http://rail.hobidas.com/blog/natori09/archives/2007/02/post-461.html
今日は約一年ぶりに「碓氷峠鉄道文化むら」を訪れました。といってもただ単に見学に行ったわけではなく、日本鉄道保存協会の顧問の先生方と鉄道文化むらを運営する財団法人碓氷峠交流記念財団の桜井正一理事長との意見交換が主目的です。
▲旧信越本線の線路を利用したトロッコ列車は鉄道文化むらと峠の湯の間2.6kmを結ぶ。今年の営業運転は3月3日(土曜日)からスタートする予定。'07.2.11
▲桜井理事長自らがハンドルを握る試運転列車。開放的な客車は天気の良い夏場は防寒窓が撤去されてオープンデッキ状態となる。'07.2.11
昨年9月に改正鉄道事業法の「特定目的鉄道」として横川~軽井沢間を“復活”させようという動きがあることをお伝えしましたが、その後昨年の日本鉄道保存協会年次総会で桜井理事長自らが、10月14日に予定されていた軽井沢までの試運転を直前になって断念せざるをえなくなった事情を報告、列席した保存協会加盟団体間にも大きな衝撃が走りました。
▲ED42、EF63と数々の名シーンを生んだ旧丸山変電所横をゆく。トップの写真のように簡単なホームが設けられており、見学停車が行われる。'07.2.11
今回の訪問は、日本鉄道保存協会として改めてその辺の経緯をきちんと把握しておく必要性と、その中から何とか将来的展望を見出そうという主旨ですが、お話を伺っていると「平成の大合併」に起因する極めて複雑な地域事情も見え隠れし、事はそう簡単ではなさそうです。当初案では昨年10月14日の軽井沢までの試運転を端緒として「特定目的鉄道」の申請を行い、園内に保存されている「あさま」2輌を約1億円を投じて改造、碓氷峠廃止10周年に当たる今秋にも開業しようという計画でした。VIPを招いての試運転にはすでに運輸局からのOKも出ていたというだけに、何とも残念でなりません。
▲旧丸山変電所の修復整備について解説する桜井理事長。'07.2.11
▲屋根が崩落するなど、一時は荒廃していた旧丸山変電所だが、現在ではすっかり綺麗に修復されており、国指定重要文化財にもなっている。'07.2.11
**********2007年2月12日
【ふたたび碓氷峠鉄道文化むらへ。(下)
http://rail.hobidas.com/blog/natori09/archives/2007/02/post-462.html
1999(平成11)年4月に碓氷峠鉄道文化むらがオープンしてからもうすぐ8年が経とうとしていますが、累計入園者はすでに158万人を超えているそうです。開園当時は、果たしてこれだけの規模のテーマパーク系展示が立ち行くのか疑問視する声も少なからずありましたが、経営的にもずっと経常黒字をあげており、その面では日本鉄道保存協会加盟団体のなかでもお手本的存在といえるかもしれません。
▲碓氷峠の山々を黄昏が包む。10000形(EC40)を模した北陸重機製DLが今日最後の園内周遊列車を牽く。'07.2.11
ただこの好調ぶりの陰には弛みないさまざまな努力があります。その最たるものがEF63の体験運転に象徴されるオンリーワンの企画で、中長期的運営の要諦となるリピーター確保に大きな力となっています。
ところで信越本線横川?軽井沢間が廃止され、頭上を高速道路が跨ぐようになった今では、旅行者にとって横川は旅程の“途中”ではなく、わざわざ足を向けねばならない場所となってしまいました。あの夕張の例をあげるまでもなく、袋小路の突き当たり部への集客は実に困難です。それに抗すべく体験運転、トロッコ列車と次々と新機軸を打ち出してきた碓氷峠鉄道文化むらとしても、ここらで横軽間の「特定目的鉄道」としての“復活”に賭けたいところでしょう。
改めて申し上げるまでもなく、いわゆる“遊園地鉄道”はその線型(エンドレス、ポイント・トゥ・ポイント等)の如何に関わらず、A点からB点への移動は基本的に認められておらず、A点から乗れば必ずA点へ戻らねばなりません。これは移動すること(つまりは運輸行為)によって料金を収受するのではなく、“遊具”に乗ること自体で料金を収受するという考え方によるものです。これに対して特定目的鉄道はあくまで鉄道事業法ですから、例えば横川から軽井沢まで乗車し、そのまま長野方面に抜けることも可能となるわけです。
▲準鉄道記念物としてかつての検修庫に大切に保管されているED42 1。'07.2.11
▲つい先日再塗装されたばかりというDD53 1。園内の展示車輌のメンテナンスもスタッフ自らの手によって行なわれているという。'07.2.11
▲展示されているEF30 20 とEF58 172(左)。右はEF59 11から復元されたEF53 2とEF63のトップナンバー。ここ碓氷峠鉄道文化むらはこのEF63をはじめ、EF62、DD51、EF60(500)、EF70(1000)、キハ35(900)、キニ58、ナハフ11などトップナンバー車が多いことも特筆される。'07.2.11
今回この碓氷峠鉄道文化むらを再訪して改めて感じ入ったのは屋外展示車輌の状態の良さです。ほとんどの車輌がすでに展示開始以来8年の歳月を経ているにも関わらず、真新しく再塗装されたものも多く、実に気持ちよく拝見することができました。伺ったところでは限られた予算のなかですべてを外注するわけにもゆかず、職員の方たちが時間をみつけては自分たちで塗装を行っているのだとか。ちょうどDD53が塗り上がったばかりでしたが、そんな隠された努力の積み重ねがあってからこその8年間だったに違いありません。
▲電気機関車の展示が多いなかで唯一の蒸機D51 96。滝川区で1976(昭和51)年3月付けで廃車になった機関車で、その後秩父のSLホテルとして保存されていたもの。こつこつと整備が続いており、圧縮空気で汽笛が吹鳴できるまでになっているという。'07.2.11
果たして横軽間の特定目的鉄道化は実現するのか、決して予断を許さない状況ではありますが、すでに碓氷峠の後に続こうと全国で数ヶ所が特定目的鉄道申請を待っており、その意味でも今後の動向が注目されます。
この特定目的鉄道化計画、軽井沢側からも期待を込めて見守られているようで、軽井沢町長も現在しなの鉄道が所有している軽井沢から横川方(約800m)の軌道敷の一部を用地買収を含めて検討する用意があることを表明しています。
▲終点「峠の湯」に到着したトロッコ列車。このホームは新設された側線だが、旧本線は今でも軽井沢へと続いている。ちなみに横川駅構内の4番線は駐車場を横切って文化むら内のトロッコ列車線へと続いており、これらを総合すると信越本線はいまだに直江津までしっかりと線路が続いていることになる。'07.2.11
**********
■合併市長選後の岡田市長と財団人事への口出しの端緒
**********2007年03月13日 【東京新聞】
碓氷峠交流記念財団 桜井理事長を解任
廃線されたJR信越線の横川-軽井沢駅間の復活を計画する碓氷峠交流記念財団(安中市)は十二日、理事会と評議員会を開き、評議員会が桜井正一理事長の理事再任案を否決。同財団は評議員会のみが理事を選任できるため、桜井氏は理事長を事実上解任された。復活計画は審議されず、当面凍結される見通し。
桜井氏によると、評議員会でほかの理事は再任されたが、桜井理事長の理事再任案のみが無記名投票となり、二対四で否決された。桜井氏は今月末で理事長を退く。後任は未定で、財団は今月中に理事会と評議員会を再度開いて協議する。
復活計画をめぐっては、桜井氏と安中市の岡田義弘市長が進め方で対立。市関係者は「市が復活計画の実現を目指す方針は変わらない」と述べ、解任劇の背景に、市の主導で計画を推進する狙いがあるとの見方を示唆した。 (菅原洋) ←(当会注:市関係者のこのコメントが空疎であることはその後の経緯が証明している)
**********2007年03月17日 【東京新聞】
安中市長『復活計画、着実に推進』 信越線の廃線区間『理事長解任 関与せず』
安中市の岡田義弘市長は十六日の定例会見で、JR信越線横川-軽井沢駅間の復活計画を立案した碓氷峠交流記念財団の桜井正一理事長の事実上の解任が十二日に決まったことを受け、「復活計画は安全、採算、専門家の高度な分析を踏まえて着実に方向を定める」と述べ、今後も中長期的に計画を推進する意向を表明した。 岡田市長は計画の実現時期について「(世界遺産暫定リストに選定された、めがね橋などの同遺産登録の決定が見込まれる)三年から五年の期間内」と、めどを示した。
一方、岡田市長は、桜井理事長の解任を決めた評議員会前の今月上旬、評議員全員の自宅を訪問し、理事長の財団運営を疑問視する資料を配布した事実を認めた。取材に対し、評議員の一人は「評議員会を前に、市長からこのような資料を渡されれば、桜井理事長を解任するための働き掛けと受け止めるしかない。復活計画が遅れるのは残念」と証言している。
岡田市長は「働き掛けではなく、資料を説明しただけ。市民に判断してもらいたい」と反論した。 (菅原洋)
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この財団の活動は、2006年4月に行われた安中市との合併選挙の直後までは、非常に活発でした。この財団を設立した松井田町が安中市と合併した年の2006年(平成18年)には、横川―軽井沢間の鉄路復活に向けて同年10月14日に、横川から軽井沢までの試運転に漕ぎ着ける寸前まで行っていました。この試運転で碓氷峠廃止10周年の2007年秋の開業に向けて準備は着々と進んでいたのでした。ところが、これにストップを掛けた人物がいました。
その人物こそ、2006年4月23日に合併後の安中市長に就任した岡田義弘氏です。彼は就任後、旧松井田町の保有する関係団体のうち、黒字体質で規模も大きなこの財団に目をつけ、その利権の大きさを認識していたからです。
■そして財団の評議員会のメンバーらに圧力をかけ、2007年3月13日に開かれた財団の評議会で、桜井正一理事長の理事再任案を否決させたのでした。同財団では評議員会だけが理事を選任できるため、桜井正一氏はこのとき理事長を解任させられたのでした。この背景には安中市の岡田義弘市長が桜井理事長が進めてきた鉄路復活計画に難色を示し、自ら財団を牛耳ろうという狙いがあったのでした。
その後、めでたく財団の利権を手に入れた岡田市長とすれば、自分の思い描いた鉄路復活をきっちりと実践することができるはずでした。しかし、その後の財団の運営を見ると、鉄路復活とは縁遠い状況が続いたのです。
■当会のブログでも報告したとおり、2007年の秋に一部の廃線区間で電線の盗難事件が発生し、同年10月17日に安中市が警察に被害届を出しました。ところが、この最初の盗難事件の後、安中市は再発防止策を協議しませんでした。
すると、今年の5月連休前に、財団の職員が鉄路沿線の草刈作業をしていたところ、架線があったはずの場所に架線が見当たらず、調べてみると、長さ11kmにわたって電線類がごっそり盗まれていたことが判明し、平成25年5月28日に、またもや警察に被害届を出すハメになったのです。
■これに先立ち、昨年7月24日午後4時40分頃、同年3月30日までに安中市が公金約1400万円を投入して修理を終えたばかりの動態保存用の電気機関車EF63の点検作業中に、3名の職員が安全のために車輪を固定する車止めを外し忘れたまま機関車を動かし、約40m先の分岐器に乗り上げて脱線させ、その衝撃でボギー本体やエアパイプ等も破損させるという事故を起こしました。そのため、夏場の書き入れ時にトロッコ列車が運行できず、EF63の体験運転の予約も取り消さたりして、さらに車体や施設の修理代などの出費も余儀なくされました。
こうして、鉄路復活どころか、せっかく旧国鉄から、軽井沢まで電気機関車が走れる設備を含む資産をそのまま引き継いだにも拘らず、新生安中市は、2度にわたり窃盗団に電線を盗まれたのでした。この事件は、我々市民をはじめ鉄道復活を願う全国にファンをガッカリさせました。
そうした最中で、止めを刺すように起きた今回の峠の湯の火災事件は、市民の貴重な財産を管理する財団と、財団の持ち主であり、財団を指導する立場の安中市がいかにずさんな組織であるかを証明したのです。
■8月1日付の東京新聞の報道によれば、岡田市長は記者の取材に対して「再建する方針を決めた。焼けなかった棟が使えるか診断して対応を決めたい」と話しました。また、同日付の上毛新聞の報道によれば、岡田義弘市長は「将来的に軽井沢ヘトロッコ列車の運行延伸を検討しており、新しい観光戦略の拠点となる施設として復元に努めたい」と対応を説明しました。
財団のトップ人事に岡田市長が口出しをした結果、平成19年3月12日に開かれた財団の評議会と理事会で、当時、軽井沢までの鉄路復活に奔走していた理事長が解任されてしまいました。そのため、鉄路復活計画の遅延が懸念され、事実、その後の推移をみれば、その懸念通りの展開になっていることが分かります。
岡田市長が新聞記者の取材に対して、「将来的に軽井沢へトロッコ列車の運行延伸を検討している」と発言した真意が、本気でそう思っているのか、それとも峠の湯の突然の火災事故で動揺して、そのようなリップサービスを言ってしまったのか、きちんと真意を確認する必要があります。
二枚舌で鳴らす岡田市長だけに、この真意確認はきちんと行いたいと思います。
【ひらく会情報部・信越線復活問題研究取材班】
※参考情報
■岡田市長が財団人事に口出しする前月の状況(日本鉄道保存協会のブログから)
**********2007年2月11日
【ふたたび碓氷峠鉄道文化むらへ。(上)】
http://rail.hobidas.com/blog/natori09/archives/2007/02/post-461.html
今日は約一年ぶりに「碓氷峠鉄道文化むら」を訪れました。といってもただ単に見学に行ったわけではなく、日本鉄道保存協会の顧問の先生方と鉄道文化むらを運営する財団法人碓氷峠交流記念財団の桜井正一理事長との意見交換が主目的です。
▲旧信越本線の線路を利用したトロッコ列車は鉄道文化むらと峠の湯の間2.6kmを結ぶ。今年の営業運転は3月3日(土曜日)からスタートする予定。'07.2.11
▲桜井理事長自らがハンドルを握る試運転列車。開放的な客車は天気の良い夏場は防寒窓が撤去されてオープンデッキ状態となる。'07.2.11
昨年9月に改正鉄道事業法の「特定目的鉄道」として横川~軽井沢間を“復活”させようという動きがあることをお伝えしましたが、その後昨年の日本鉄道保存協会年次総会で桜井理事長自らが、10月14日に予定されていた軽井沢までの試運転を直前になって断念せざるをえなくなった事情を報告、列席した保存協会加盟団体間にも大きな衝撃が走りました。
▲ED42、EF63と数々の名シーンを生んだ旧丸山変電所横をゆく。トップの写真のように簡単なホームが設けられており、見学停車が行われる。'07.2.11
今回の訪問は、日本鉄道保存協会として改めてその辺の経緯をきちんと把握しておく必要性と、その中から何とか将来的展望を見出そうという主旨ですが、お話を伺っていると「平成の大合併」に起因する極めて複雑な地域事情も見え隠れし、事はそう簡単ではなさそうです。当初案では昨年10月14日の軽井沢までの試運転を端緒として「特定目的鉄道」の申請を行い、園内に保存されている「あさま」2輌を約1億円を投じて改造、碓氷峠廃止10周年に当たる今秋にも開業しようという計画でした。VIPを招いての試運転にはすでに運輸局からのOKも出ていたというだけに、何とも残念でなりません。
▲旧丸山変電所の修復整備について解説する桜井理事長。'07.2.11
▲屋根が崩落するなど、一時は荒廃していた旧丸山変電所だが、現在ではすっかり綺麗に修復されており、国指定重要文化財にもなっている。'07.2.11
**********2007年2月12日
【ふたたび碓氷峠鉄道文化むらへ。(下)
http://rail.hobidas.com/blog/natori09/archives/2007/02/post-462.html
1999(平成11)年4月に碓氷峠鉄道文化むらがオープンしてからもうすぐ8年が経とうとしていますが、累計入園者はすでに158万人を超えているそうです。開園当時は、果たしてこれだけの規模のテーマパーク系展示が立ち行くのか疑問視する声も少なからずありましたが、経営的にもずっと経常黒字をあげており、その面では日本鉄道保存協会加盟団体のなかでもお手本的存在といえるかもしれません。
▲碓氷峠の山々を黄昏が包む。10000形(EC40)を模した北陸重機製DLが今日最後の園内周遊列車を牽く。'07.2.11
ただこの好調ぶりの陰には弛みないさまざまな努力があります。その最たるものがEF63の体験運転に象徴されるオンリーワンの企画で、中長期的運営の要諦となるリピーター確保に大きな力となっています。
ところで信越本線横川?軽井沢間が廃止され、頭上を高速道路が跨ぐようになった今では、旅行者にとって横川は旅程の“途中”ではなく、わざわざ足を向けねばならない場所となってしまいました。あの夕張の例をあげるまでもなく、袋小路の突き当たり部への集客は実に困難です。それに抗すべく体験運転、トロッコ列車と次々と新機軸を打ち出してきた碓氷峠鉄道文化むらとしても、ここらで横軽間の「特定目的鉄道」としての“復活”に賭けたいところでしょう。
改めて申し上げるまでもなく、いわゆる“遊園地鉄道”はその線型(エンドレス、ポイント・トゥ・ポイント等)の如何に関わらず、A点からB点への移動は基本的に認められておらず、A点から乗れば必ずA点へ戻らねばなりません。これは移動すること(つまりは運輸行為)によって料金を収受するのではなく、“遊具”に乗ること自体で料金を収受するという考え方によるものです。これに対して特定目的鉄道はあくまで鉄道事業法ですから、例えば横川から軽井沢まで乗車し、そのまま長野方面に抜けることも可能となるわけです。
▲準鉄道記念物としてかつての検修庫に大切に保管されているED42 1。'07.2.11
▲つい先日再塗装されたばかりというDD53 1。園内の展示車輌のメンテナンスもスタッフ自らの手によって行なわれているという。'07.2.11
▲展示されているEF30 20 とEF58 172(左)。右はEF59 11から復元されたEF53 2とEF63のトップナンバー。ここ碓氷峠鉄道文化むらはこのEF63をはじめ、EF62、DD51、EF60(500)、EF70(1000)、キハ35(900)、キニ58、ナハフ11などトップナンバー車が多いことも特筆される。'07.2.11
今回この碓氷峠鉄道文化むらを再訪して改めて感じ入ったのは屋外展示車輌の状態の良さです。ほとんどの車輌がすでに展示開始以来8年の歳月を経ているにも関わらず、真新しく再塗装されたものも多く、実に気持ちよく拝見することができました。伺ったところでは限られた予算のなかですべてを外注するわけにもゆかず、職員の方たちが時間をみつけては自分たちで塗装を行っているのだとか。ちょうどDD53が塗り上がったばかりでしたが、そんな隠された努力の積み重ねがあってからこその8年間だったに違いありません。
▲電気機関車の展示が多いなかで唯一の蒸機D51 96。滝川区で1976(昭和51)年3月付けで廃車になった機関車で、その後秩父のSLホテルとして保存されていたもの。こつこつと整備が続いており、圧縮空気で汽笛が吹鳴できるまでになっているという。'07.2.11
果たして横軽間の特定目的鉄道化は実現するのか、決して予断を許さない状況ではありますが、すでに碓氷峠の後に続こうと全国で数ヶ所が特定目的鉄道申請を待っており、その意味でも今後の動向が注目されます。
この特定目的鉄道化計画、軽井沢側からも期待を込めて見守られているようで、軽井沢町長も現在しなの鉄道が所有している軽井沢から横川方(約800m)の軌道敷の一部を用地買収を含めて検討する用意があることを表明しています。
▲終点「峠の湯」に到着したトロッコ列車。このホームは新設された側線だが、旧本線は今でも軽井沢へと続いている。ちなみに横川駅構内の4番線は駐車場を横切って文化むら内のトロッコ列車線へと続いており、これらを総合すると信越本線はいまだに直江津までしっかりと線路が続いていることになる。'07.2.11
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■合併市長選後の岡田市長と財団人事への口出しの端緒
**********2007年03月13日 【東京新聞】
碓氷峠交流記念財団 桜井理事長を解任
廃線されたJR信越線の横川-軽井沢駅間の復活を計画する碓氷峠交流記念財団(安中市)は十二日、理事会と評議員会を開き、評議員会が桜井正一理事長の理事再任案を否決。同財団は評議員会のみが理事を選任できるため、桜井氏は理事長を事実上解任された。復活計画は審議されず、当面凍結される見通し。
桜井氏によると、評議員会でほかの理事は再任されたが、桜井理事長の理事再任案のみが無記名投票となり、二対四で否決された。桜井氏は今月末で理事長を退く。後任は未定で、財団は今月中に理事会と評議員会を再度開いて協議する。
復活計画をめぐっては、桜井氏と安中市の岡田義弘市長が進め方で対立。市関係者は「市が復活計画の実現を目指す方針は変わらない」と述べ、解任劇の背景に、市の主導で計画を推進する狙いがあるとの見方を示唆した。 (菅原洋) ←(当会注:市関係者のこのコメントが空疎であることはその後の経緯が証明している)
**********2007年03月17日 【東京新聞】
安中市長『復活計画、着実に推進』 信越線の廃線区間『理事長解任 関与せず』
安中市の岡田義弘市長は十六日の定例会見で、JR信越線横川-軽井沢駅間の復活計画を立案した碓氷峠交流記念財団の桜井正一理事長の事実上の解任が十二日に決まったことを受け、「復活計画は安全、採算、専門家の高度な分析を踏まえて着実に方向を定める」と述べ、今後も中長期的に計画を推進する意向を表明した。 岡田市長は計画の実現時期について「(世界遺産暫定リストに選定された、めがね橋などの同遺産登録の決定が見込まれる)三年から五年の期間内」と、めどを示した。
一方、岡田市長は、桜井理事長の解任を決めた評議員会前の今月上旬、評議員全員の自宅を訪問し、理事長の財団運営を疑問視する資料を配布した事実を認めた。取材に対し、評議員の一人は「評議員会を前に、市長からこのような資料を渡されれば、桜井理事長を解任するための働き掛けと受け止めるしかない。復活計画が遅れるのは残念」と証言している。
岡田市長は「働き掛けではなく、資料を説明しただけ。市民に判断してもらいたい」と反論した。 (菅原洋)
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