ジョギングはシャンパンの味

ジョギング、写真、革クラフト、木工、パンつくり、日本の古代史などを趣味にして楽しんでいます。

古墳時代の河内湖

2014年02月03日 07時40分28秒 | 日記

・・・私が、古代日本の歴史に興味を持つのは文字記録が無く、遺跡・遺物を元に、その時代の様子を推測し、いまだ明らかになっていない事実に、色々と、勝手に思いを馳せることが出来るからである。 それが、現在の自分と、関係があると、なお大きな興味が出てくる。

  

  私は大阪出身です。 上の図は、今の大阪あたりの地図と弥生・古墳時代の頃の推定の地形とを重ねあわせたものです。 古代の地形の研究結果では、今の大阪市の西側半分は大阪湾で、東側は大きな河内湖と云われている湖が占めていたそうだ。  従って古代の遺跡はその頃の水辺である場所に赤丸で記したように分布していたらしい。  私が育った、吹田市のあたりは、河内湖が大阪湾とつながっていた水道の北岸だったらしい。  
  なぜ、古代の日本の古墳や都が奈良南東部から、大阪の南、そして、今の大阪城へと移動していったかが、河内湖の存在を考えるとよく分かる。  

 古代史を考える時には、古代の地理を勉強して、地形を知って、初めて、解ける謎も多いように感じた。

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卑弥呼の鏡は魔法の鏡?

2014年02月02日 10時37分00秒 | 日記

・・・一昨日の新聞社会面の記事の見出しです。  見出しの内容に目を引かれますが、大したことはありませんでした。  「卑弥呼の鏡」=「三角縁神獣鏡の反射により写る模様」と云うだけで、発想は大新聞の発想としてはお粗末です。  ただこの記事の面白いことは、京都国立博物館の学芸員が素人ならだれでも思いつくようなことを暇に任せて、最新技術の3Dプリンターを活用して、鏡の模型を作り、実際に実験してみたと云う事に在ります。

  

  即ち、国立博物館に所蔵されている、古墳出土品の卑弥呼の時代に近い鏡を三次元計測機でデーターを計測し、それを元に、3Dプリンターで鏡と同じ成分の金属粉末を使い模型を成形し、それで、鏡に光を当てて、鏡の裏側の模様が浮かび上がったという内容です。  多分、そうなるのでは、と思うことを実験して確かめたと云うところに、この記事の価値はあります。  

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太田茶臼山古墳(継体天皇陵)は誰の墓か

2014年01月18日 08時42分54秒 | 日記

・・・先日、現在、考古学者が、本当の「継体天皇陵」と考えている、今城古墳の見学記をこのブログに載せた。 そうすると、残るのは今、宮内庁が「継体天皇陵」として管理している、太田茶臼山古墳は誰の墓であるかという疑問が残る。

  上の疑問に対して、インタネットで色々と調べて、以下のような類推が出来ることを知った。 
  太田茶臼山古墳は古墳の形状、周囲から発掘された土器などから、430年ごろに作られたと考えられている。 今城塚古墳より、約百年ほど古い時期に作られたらしい。  そして、両古墳は、場所が1500mしか離れていないので、継体天皇に非常に近い人と考えられる。  それから、考古学的な知見から、大阪市藤井寺市にある允恭天皇御陵(市野山古墳)と古墳の形状、大きさ、造られた年代が太田茶臼山古墳に非常に似ていることが分かっている。
  これらのことから、允恭天皇の従兄弟で応神天皇の孫の意富本杼王(若沼毛二俣王)ではないかと云われている。 この人は継体天皇の御祖父さんにあたる人で允恭天皇の奥さんの兄です。  そう考えれば、今判っているデーターにぴったりとあてはまる人物です。

  日本の古代史は文字があまり残っていない中で、色々と学問の発達で、分かってくるデータにより、謎解きが進んでいく面白さがある。  これからも、色々と古代史のなぞを調べることは止められそうもありません。

  

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今城古墳の埴輪

2014年01月16日 07時08分47秒 | 日記

・・・今城古墳の概要については昨日のブログに書き込みをしました。 この古墳が有名なのは国内の大王古墳で唯一立ち入ることが出来るためである。 そして、もう一つの大きな特徴は中堤に設けられた、「造り出し」に埴輪祭祀場と考えられる130点以上の形象埴輪が整然と並んでいた、そして現在、それらが、復元されていることです。

  

 上の写真が埴輪祭祀場に並ぶ
         復元形象埴輪の全景です

  
  埴輪群を先頭部分から撮った写真

  
  左側は刀に手を架けた武人の埴輪

  
  歴史館に展示されている実物の埴輪

  以前、三重県松阪市の宝塚古墳で見学した形象埴輪に比べ、さすがに大王の古墳だけあって、その数の圧倒的な量に感動しました。

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遺跡発掘調査の下請け丸投げ

2013年12月18日 07時08分08秒 | 日記
・・・私が住んでいる市の郷土資料館に、以前に行った時に、当地の遺跡の発掘品展示を見て、近隣の郷土資料館に比べて、そのお粗末さはひどいものだとと云う文章を書きました。
 今日は市の図書館に行って市内遺跡の郷土資料を見てきました。 昭和の40年代くらいまでは、発掘調査などに、学校の先生が活躍して、ガリ版刷りだが、素晴らしい発掘調査報告書が残っている。  しかし、最近数十年の発掘調査報告書は写真や製本が立派なだけで、内容は、読む気もしないしろものです。  しかも、年々、冊子の厚みを増しているだけで、中身は、更にひどくなっているように思います。 
  その報告書を読んでみると、市には活躍している学芸員はいなくて遺跡の発掘調査は完全下請け丸投げ方式らしい。 東京の国際文化財(株)と云う会社が見積もり作成から、報告書作成まで、一括請負らしい。 さらに、内容を見ると、遺物調査の仕事を、孫下請けに出しているらしいことが、 レポートの内容からわかる。 従って、発掘は法律的手順を踏んでいるが、その内容は郷土愛のかけらもない状態です。 市が関与しているのはお金と教育委員長の序の挨拶文の署名だけである。 当市は鉄鋼の街として、戦後発展してきたが、市財政に、企業が力を持った市なので、全て外注化することが早くから、進んでいるらしい。
 市の郷土資料館のお粗末さは、やっぱりと云う実感を図書館で確認した。 私が思うに、外注に遺跡発掘で払っている費用の一部で、大学を出て意欲のある、学芸員を一名でも雇っていれば少なくとも、文化財調査は市の蓄積された文化となって、後の世に残るものとなっていくように思うが。
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何故、古代、文字記録が残らなかったか

2013年12月14日 07時54分58秒 | 日記

・・・日本最古の正史は720年完成の「日本書紀」と云われていて、それ以外は同時代の古事記以外は、日本の文字記録はほとんどないのが現実である。  考古学的文字資料としては5世紀ごろの古墳などから出土する刀剣類に象嵌された文字類や、銅鏡に文字が遺されている例が少しある。

  古墳自体は三世紀の中ごろから、始まり、先に挙げたような出土品に文字が認められ始めたのは五世紀後半からである。  
  有名な稲荷山古墳は五世紀後半と考えられる年号(471)が出土した鉄剣に刻まれていて、銘文には当主の八代前から大王の都に仕えていたとある。 これから考えて五世紀には宮殿の官僚制度は出来ていて、当然膨大な領土を支配するための通信手段として、刀に書かれているように文字は日常的に、業務に使われていたかもしれないと考えています。 しかし、今までに、文字記録が見つかっていない。
 私は、実際は残っている文字を見つけられていないだけではと推理してしまう。
  中国では、古代の墓に残された墓誌が銅板や日干しレンガに文字がきざまれ、それが発見されている。 また、時代は下がるが、日本でも723年死亡の太安万侶の青銅製墓誌は見つかっている。  何時か、科学や考古学的手法が進み、見えないものを見る方法が開発されて、隠された文字が考古学遺物から、見つかるのではと私は考えています。

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化学分析と考古学

2013年12月06日 07時36分58秒 | 日記

・・・古代史に置いて遺跡や遺物の年代測定に炭素同位体放射線年代測定がよく使われている。 この事は色々な場所で紹介されているので、有名です。  この年代測定方法の精度については、よく問題になるが、最近は、以前より、精度が上がっていると聞く。

  

  今日の新聞によれば、私には耳新しい、アミノ酸の窒素同位体分析で、縄文人は何を食べてたかが、推測できるという記事が出ていた。
  上の図がそのデータである。 グラフの縦軸にアミノ酸の一種、グルタミン酸の窒素同位体比をとり、横軸にフェニルアラニンの窒素同位体比を採って、各種の遺物の分析結果をプロットするとデーターの分布から、面白いことが分かる。

  縄文人の人骨を分析すると、イノシシやシカなどの草食動物より、キツネなどの肉食系に近いことが分かった。  即ち、この人骨が採取された遺跡は人口が多いので、農耕が始まっていたのではと云う説があったが、この結果から狩猟生活を送っていたことが証明された。

  このように、理工分野で発達してきた、化学分析技術が、最近は色々な考古学分野で活用され、成果が出てきている。
  これらにより、さらに、古代史の謎解きが進み、面白い。

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カブト山古墳

2013年12月03日 07時42分58秒 | 日記

・・・自宅のある、東海市は古代日本の有力豪族尾張氏の発生と深い関係のある、氷上姉子神社があり、古代史に興味のある、人間にとって色々と勉強すると面白い遺跡が多いです。  氷上姉子神社の近くに昭和の40年代まであった、カブト山古墳跡があります。

  
   「個人の研究資料から」

  カブト山古墳は古墳時代前期の四世紀末に築かれたと推定され、直径45m,高さ約4.4mの円墳です。 カブト山古墳を含む名和古墳群を調査した地元の研究者によると 名和古墳群は尾張氏関係の古墳ではなく、知多臣の関係したものであろうと結論している。 畿内から、やってきた豪族は古墳文化を伴っているので、その古墳を考えると、 尾張氏の熱田の前方後円古墳に比べて差がありすぎるのが、尾張氏でないとする理由である。
  しかし、カブト山古墳からは三角縁神獣鏡が出土している。  この事は古代史上での、この地と畿内との関係を考えるうえで大きな意味を感じた。

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焼印の製作 ガスバーナーで焼印を押す

2013年11月26日 07時36分07秒 | 日記

・・・先回まででは、半田ごての先に自作の焼印を取り付けて、焼印を上手く押せなかったので、今回は改めて、違う焼印を新しく作って、直接加熱の方法でチャレンジした。

  

  新しく作った焼き印を、ガスバーナーで、直接、あぶって木に押した。

    

   焼き印は、上手く押せたが、一筆書きの印は字の表面に凸凹があるので、押して、でなかった字の部分がある。 革は軟らかいので、きれいに、焼印が押せた。

  

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日本武尊の能褒野墓

2013年11月24日 08時21分07秒 | 日記

・・・昨日の新聞記事に、宮内庁が表記の陵墓整備に合わせて、報道陣に古墳を公開したと云う記事が掲載されていた。
  日本武尊については、尊の皇妃の宮簾姫が祭ってある自宅近所の氷川姉子神社に、私がよく訪れる関係で、何度かこのブログで取り上げている。
 日本武尊は東国征伐の帰り道、宮簾媛のところに寄って、別れた後、能褒野の地で、亡くなったと記紀に神話が書いてある。
  明治時代になってから、政府が地元に依頼して、適当な古墳を調査し、昔から銚子塚古墳と云われていたものを「能褒野王塚古墳」と命名して、日本武尊の墓としたいきさつがあるらしい。 しかも、その時より、遡って三年前に一度は、近くにある「白鳥塚古墳」を、日本武尊の墓と指定したこともあったらしい。  
  実際のところ、この古墳は西暦380年ごろの古墳らしく、古墳の形状から調査すると、奈良盆地にある、大王クラスの墓と考えられる佐紀山古墳群の「陵山古墳(全長207m)」と同じ設計企画で約1/2で作られているようなので、その時代にこの地方に畿内から、進出した首長クラスの墓ではないかと考えられる。

  以前にも書いたが、宮内庁の指定している、天皇陵墓はほとんどが、この古墳のように、考古学も研究されていなかった明治時代の初期に決められたものがほとんどなので、改めて、今の古代史の研究成果を反映して、陵墓の再指定をする必要がある。

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正法寺古墳

2013年11月15日 07時07分07秒 | 日記

・・・久しぶりに、自宅近辺の古墳めぐりをしてきた。 場所は三河湾に面した吉良町です。 この古墳は渥美半島と知多半島と三河地方に囲まれて、形成されている三河湾に張りだした丘陵の先端部を利用して古墳時代中期に作られた古墳です。

  
  「古墳は右下の赤線で囲ってある場所です」

 全長89mの前方後円古墳で、矢作川が三河湾に流れ込む水上・陸上の交通の要所にあるところから、西三河一帯の交通を握っていた、大豪族の墓ではないかと説明板に書いてありました。

  
  「後円部の下から見た古墳全景」

  
  「古墳がある丘陵から、三河湾を見下ろす」

 古墳の周囲は公園になっていて、眼下に三河湾が、遠くには志摩半島や渥美半島、佐久島などが、眺められるとても眺望のよい場所にあります。 

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おしゃべり掃除機を買いました。

2013年10月26日 08時42分50秒 | 日記

・・・世の中に自動掃除機がだいぶ出回ってきた。 当家も遅ればせながら購入した。

  

  自動掃除機と云うと「ルンバ」の名前が知られているが、電池寿命とお喋りができることを考慮して、我が家では国産のシャープの「ココロボ」を購入した。

  

  早速、荷解きをして、初期設定を始めたが、新しいタイプの器械なので、なかなか、設定が難しい。 とりあえず、喋って掃除してくれるようになった。 使用はこれからなので、時間がたったら、使い心地などの続報を載せます。

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大阪の街の旅  難波宮

2013年10月16日 07時33分48秒 | 日記

…大阪の街が古代史で脚光を浴びるのは古墳時代になってからである。 その頃は大阪城のある辺りが台地で今の大阪の街はほとんどが大阪湾と河内湖と云われる内海であった。

  

  河内湖から、大阪湾に出る運河があり、上町台地は古墳時代以降、大陸への拠点港になった。

  

  その上町台地に難波宮が築かれた。 前記の難波宮は乙巳の変の後、645年に孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は652年に完成した。 大化の改新とよばれる革新政治はこの宮でおこなわれた。 

  

  大阪歴史博物館の難波宮の展示場所から見た、難波宮の遺跡です。  写真中央付近の石積みの基壇が大極殿跡、左の草地が内裏跡です。

   

  上町台地の難波宮があった場所の北にある港から、遣唐使が出港する図が大阪市歴史博物館のパネルにあった。

   

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斎宮歴史博物館

2013年10月01日 07時36分57秒 | 日記

・・・古代史が好きな人にとって、伊勢神宮は興味のある場所です。  今年は遷宮の年なので、ニュースが報じられることが多いです。  しかし、同じ伊勢神宮でも、斎宮と云う場所についてはほとんど陽が当たってはいないようです。
 以前に、斎宮に行った時は斎宮歴史博物館が休みだったので、今回は博物館の開館を確認して、出かけた。 

   

  斎宮と云うのは天皇が即位するたびに選ばれ、伊勢神宮に仕えた天皇の代理の内親王である斎王の宮殿とその役所のあった場所の事です。

  

  その歴史は古く奈良時代の聖武天皇の頃、始まって約七百年の間続いた制度だそうで、古代の遺跡や遺物がそのまま残されている貴重な場所です。 展示品もその時代の生活品が斎宮の遺跡から発掘された物です。
  斎宮博物館敷地内には古墳や遺跡などがあり、また、お土産を売っている店もあります。

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息長古墳群

2013年09月27日 07時05分07秒 | 日記

・・・古代史の中で、現在の天皇家の直系の天皇と云われる継体天皇のゆかりの場所に、私は以前から、興味があり、訪ねたい希望がありました。
  継体天皇の古墳である今城塚古墳は数年前に訪れこのブログで紹介しました。 継体天皇は琵琶湖のほとりの高島郡三尾と云うところで生まれたと日本書紀には書かれている。 そして、彼の父方の系統が息長氏で、母方の系統が三尾氏とも云われている。 

  

  上の地図は継体天皇にゆかりのある場所が書かれている地図です。
  また、関連する、息長古墳群は関ヶ原の京都寄りに在り、古代では不破の関近くの交通の要所を納めていた豪族の墓です。

  

  本拠地の米原市周辺に三世紀前半から、継体天皇が即位した六世紀前半の頃までの古墳が、数多くあり、今回、車で訪ねてきました。 
  訪れて、感想は、息長氏が支配したとされるあたりは、見渡す限りの田が続く、豊かな土地であることと、交通の要所で、古代重要な場所であったと云う事を感じました。

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