瀬戸内寂聴さんは先日、99歳の御高齢でお亡くなりなった。
朝日新聞の毎月の連載「残された日々」を読むことを楽しみにしていた。
上は最後の回であった、昨年10月の76回目のエッセイです。内容は卵焼きにまつわる戦争で亡くなった彼女の母の思い出である。
寂聴さんの76回の連載エッセイを読んで、今も、頭に残っていることは、いくつもあるが、その中でも、彼女が良く描いていたのは、長く生きたので、いつ死んでもよいように思う。とか、思えば長生きしたものだという感慨を述べた文章をエッセイの中でよく読んだ。
寂聴さんだけでない。
身近な92歳まで生きた私の母の口からも、晩年、体が弱った90歳も過ぎた頃から、いつ死んでもよいと、母との会話の中でよく聞かされた。
88歳で亡くなった兄も、亡くなる一年前くらいから、体が弱ったころに、会いに行くと、同様な事を云っていた。
一説によると、人間の物理的観点からの寿命は125歳くらいだと、どこかで聞いたように思う。
上に書いた死にたくなる年齢は、その前の、90歳から100歳であるが、割合的には、前記の物理寿命の統計的過半数80%を過ごしたことになるので、そこまで到達したかなりの人は死なないまでも、心身とも、健康である事は難しくなる。
そんなことから、そろそろしんどくなって、死ぬのも仕方ないかという気持ちになるのではと思う。
人は、健康な毎日を送れないと、生きていることはつらい。
寂聴さんのエッセイからそんなことを感じた。
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