楽しい日々

ホームページを作ることが 与えてくれた楽しみや 主婦の日々の思わぬ出来事を 聞いて聞いて!  

新たなルール

2018-05-07 22:42:29 | あったらいいな

電気,ガス、水道、電話の企業のルールが どうもすっきりしたルールになっていない気がしてなりません。どこがすっきりしないのか わからぬうちに ルールーに追いつかれないよう あらたな事業を展開していて 総じて把握している人間がいるのかと そんなきがしています。

政治の世界も 税金がどうしても公共事業に使われて 日本列島改造論どおり 未だに同じ仕組みで税金がつかわれ やめられませんしゃぶりつくすまでというルールで政治が動いているような気がしてなりません。

党が違っていても 政策の 税金のルールが既存のままなら 大した違いがおきません。

一方 日々 暮らしの中で車窓を眺めていると 伝統的な日本家屋はなくなり どの街に出かけても 同じような企業が軒を並べて 特色が消え失せてゆく気がしています。

百分で名著の番組で 紹介されたのですが。 生きがいという言葉は 外国語で単語では存在しないそうです。 その生きがいに当たる自分らしさがどこの町で育ってもほぼほぼ同じでは 自分の人生に自分らしさを発揮できてゆかない気がしています。自然の細やかな特色をいかしてゆくことこそが 個性的な生きがいを生むと思うのです。

何処の街も同じ土木工事で 同じような基準の公園で育てば 自分らしさを発揮することはできません。

小さな国土に多種多様な生き物と 多種多様な暮らしをはぐくんできた日本が 将来は規格品の安物文化に変貌してゆくようなさみしさを 感じるようになりました。

食べ物も すべて規格品 でこぼこも げじげじもしていなければ 毎日同じでは 工夫もいりません。

公共事業は 必要ですが 規格でがんじがらめにせず 昔からの知恵も盛り込んだ

事業にしてもらえるといいのになあ なんて 思っています。

そして 国が安っぽくなる前に 税金で首が回らなくなっていることを自覚して

あらたなスマートルールを考えてくれる人物があらわれると いいのになあ。

 

 

 


糖尿病だけど いちご

2018-05-06 22:50:52 | 調理

ゴールデンウイークから 畑の苺が収穫できるようになりました。

密集地帯と高畝地帯 石垣地帯と 今年は分散させて 草防止にたくさん植えています。

高畝地帯でも ニンジンを傍に植えた個所が一番大きないちごが収穫できます。

収穫期に雨が降ってくれたおかげで

どんなにちいさな株でも ちゃんと実をつけて 結構な収穫量です。

 

 糖尿病である私は 一度に食べられません。それで ジャムもあまり欲しくありません。

ちょっと工夫してヨーグルトのソースにすることにしました。

収穫して赤くなった苺を洗い蔕を取ります。

鍋に50個ほどいれて大匙1くらいの白砂糖をまぶし 時々かき回して赤い汁が出るまで放置します。収穫して生でたべた残りはすべて放り込みました。

砂糖の量はお好みでよいと思います。

ジャムなら苺と同重量の砂糖をいれますが 我が家の苺は甘いですし 極力砂糖を控えたいので 私は汁が出てくれる程度の砂糖の量にします。

しっかり砂糖が回った状態で しゅーっとわく音が出るくらいまで火にかけます。

汁に沸騰の泡がたったら火を止め鍋のふたを閉めます。

これを好みまで繰り返し 仕上げに お好みの量の酢をくわえてできあがりです。

ジャムではありませんから 酢が少なければ早めに食べ終えるようにします。

苺の粒を分離しても良いですが 色落ちして残念な状態になるので いっしょにしておいて 色が戻ったら分離しても良いでしょう。

ソースにしても変質しないうちに食べきれない場合は さらに酢を加えて かき氷のソースにしても良いですし

冷凍すればお菓子に使うことも可能でしょう。

長く火にかけないことで 色も香りもよい 糖尿病の私にも使えるソースになりました。火を入れ終わるときレモン汁をくわえると さらに香りが引き立つとおもいます。

 

 


女性の強みと弱点

2018-05-05 00:34:52 | 日本文化

女性であれば 男性を魅了し 男性であれば 女性を魅了することは 必ずあります。動物本来の能力でもあると思うのです。

その魅了する要素を なにで どう どこまで表現するかは その人らしさにかかわっているはずです。

そういった 自分をどこまで どのように表現するか いってみれば 何を着て どう動いて 話すことばを どう選ぶかが その人らしさを表現します。その表現をよみとって 共感したり嫌悪したりするわけですから 一律どうあるべきなどと 決められません。

いまでは 過去の女性の強みと言われた おしゃれやしぐさは 論理力という武装に変えるほうがよいのかもしれません。そして 男性におとる筋力は ロボットで対抗するようになるのかもしれません。

何処の国も 歴代の人たちで 脈々と異性を魅了する方法は 知恵を蓄積してきたはずです。いわば価値観にも相当します。

パワハラ セクハラ やっと日本でも テーブルにのるようになってきましたね。

パワハラや セクハラには ルールがあるようですが それぞれの感覚によるあいまいな部分が残ります。電車の中でゆれてさわってしまった女性に ものすごい勢いで怒鳴られたとこがありますが 感受した感覚で 被害にあったと感じたのでしょう。

当然 被害にあったと感じた人に あわせることが 必要になります。

冷静に被害ではなかったと 思ってもらえるよう 対応するのがすべきことで 勘違いであったと 思ってもらえるまで 努力するほかありません。

そんなに ピリピリしていたら 恋愛もできません。恋に落ちたらどう表現すればよいということになるのでしょう。

女性であるとか 男性である前に 一人の人格が確固としてあり 相手をよく観察して その技量を読み取り 自分をどう表現するかきめて コミュニケーションをとる必要があります。そのうえで 双方同意の上の 男女関係になるのなら それはめでたいことです。かなりの 能力と創意工夫が必要になることは 否めません。

 60歳のおばさんが 娘時代には いきなり 見ず知らずの有名大学の学生が 肉体関係をもちませんかと 電話をしてきたり

 結婚したら当然やめてもらいますがいいですかと 就職の面接で言われたり 

10年は子育てに専念してもらわねばと協力してもらえなかったりと ひどい状況でしたから そのままの思いやりにかけた感覚の方は 多いのかもしれません。

日本女性の所作や 習い事は 上品に女性の強みを 発揮していたのではないでしょうか。お茶や生け花 書道や武道が 人生哲学と生活環境の向上に 貢献してきていたはずで 高貴な芸術的表現で 下賤な男性を寄せ付けない方法として 勉強する価値はあると 思っています。

男性も 乱暴な気持ちが 美しいものの前では なえるはずです。男性も 伝統文化を学べば 柔軟な気持ちと 誠実なふるまいが できるはずです。

今 とても率直で 素直な時代になっています。でも セクハラ問題が浮上した この機会に 人間同士 互いにとって理性ある表現で 相手を高めあう社会の第一歩になれば 悩むべきだし 喜ぶべきだと思っています。


歴史に学ぶべき

2018-05-03 22:07:30 | むかしばなし

民主国家である日本と 政治家の方々はいわれますが 内閣総理大臣が憲法の発議を起こす方向で会見を国民に報道をつかってするなど 大丈夫なんでしょうか。

アメリカでさえ 多くの国民が世界情勢を各々理解して 国の在り方を議論できて議会がなりたっているか 疑問が起きています。理想を掲げても 現実はなかなか困難が立ちはだかるので いくら勉強していたとしても 活かせるとは限りませんしましてや どのような教育が どのように影響して国が動いてゆくのか 難しい。

日本では 民主教育といっても 軍国主義教育から急変させて突貫工事で始まったのでしょう。だれも民主主義を知らない。 多くの教師は昨日まで お国のためと生徒を軍需工場で働かせていたような状況から その同じスタッフが教師として残って 本日から教科書を黒塗りして始めた民主教育だったはずで そこから徐々に改善をして今があるはずです。どうしても あちこちで分裂して教育がなされることは否めないのではと思っています。

江戸時代や 明治時代 大正時代のほうが 民主的なところもあったかもしれません。

戦後の家庭でも それぞれの価値観もあいまって 未だに修身教育の残骸がよしとされることも 否めません。

安倍首相の奥様が 幼稚園児がそろって合唱をする姿に感動された様子を見て 戦後の日本は 未だにあいまいに ごまかしで民主化を始めたために 政治家の奥様でさえ これが現実なんだと愕然とした次第です。何が民主教育に必要で 国はそう運営すべきか なにが あの軍国主義国家にしたのかの 検証はいまだはっきり示せていないのではないでしょうか。地方によっては 村社会のままで 違いもくらべることすら していないかもしれません。

歴史に学ぶべきは 第二次世界大戦のさなか 陸軍が食料の確保も想定できないまま 南アジアに強制派兵がなされ 戦えずして国民はジャングルで餓死していった過去です。

いまや 国は中東など外交で援助を約束しつづけていますが 国の在り方も 方向性も示せないまま 庶民をないがしろにしていないでしょうか。 大きな想定能力は ちいさな観察から可能だと思います。自分の感じは 戦時中の構図と 今の状況は似ているのです。

AIのルールも 電話や電気のルールも 農業生産物のルールーも 今の現状で大丈夫なんでしょうか。コンビニでさえ たたむ 農業や中小産業は継承できず 気が付けば できない約束ばかりがのこることには ならないでしょうか。

 

いまや 国民年金保険料は年間20万に及んでいます。十年前から随分増えている気がしています。今の現状維持で 大丈夫なんかなあ。

 


ライフサイクル都市計画

2018-05-02 10:25:42 | 日本文化

今までの都市計画は 企業による収益のための都市計画だったように感じています。

家を売りたい 大企業の収益が上がるようにしたい 商業活動が活発な町にしたい。

山奥まで農業生産をしてきた村は街での生活の便利さに負けて 過疎化が起き 車による社会活動で鉄道を利用しなくなったために 駅前商店街はシャッター通りになりました。

本当に魅力的な町は 徐々に再生を果たしていますが 取り残されたり どう考えても50年ン後は未来がないと感じる街もあります。

高いビルが立ち並んでも 魅力的な施設が代々手を変え品を変え そのビルが 繰り返し未来でも 建て替えられ 変わり続けていなければ 

今は素敵に見えてもいずれ負債となり 維持管理もできなくうなることが予想されます。森や山でも変化するのですから ましてや人の建造物など あっという間です。

人間が生きてゆくうえで 必要なのは 良い水と空気と 食であることを忘れることはできません。そのために 生まれて 育つ段階に必要な空間や 働く世代に必要な生産の場  老いても自分で自分の生活の維持ができ 輝いて活躍して豊かな人生を全うできる機会などを盛り込んだ

トータルで提案できる都市を 計画的に考えて行けると いいのになあ。

そう考えるようになっています。

つい70年前まで 国が個人を支配する時代でしたから そんなトータルで人生を考えて住まう 町を計画することなど まったくできませんでした。

でも 他人の想念を互いに譲り合い理解しああって暮らせる状況に やっとなりつうあるとおもっています。ところが 実は草木も動物も 人間が簡単に絶滅させることができるほど 地球は狭いこともわかってきました。

そう考えると 経済も大事ですが それ以上に当たり前にあるはずの 地面 空気 水は 当たり前ではなく ある日突然なくなることがありそうです。

それも人間だけが生き延びても 地面も空気も ましてや食は維持していけないことも わかってきました。そんな絶滅回避を 念頭にした 都市計画を立てないとなあ。そんなことも考えてしまいます。

公共交通網の近くに 老人施設をおいて 人生の経験豊かな知恵を発揮してもらって

歩いて1キロ圏内で 買い物も 生活も音楽や絵画 庭や演劇を楽しめる施設も徒歩で行き来できるように計画し お金をかけずとも豊かに暮らせるようにし

郊外に 若い人の生産活動や 商業施設をおいて 子育て世代がダイナミックに人生を生き抜けるようにし

本来 日本の神仏の教えが大切にしてきた 自然の恵みや怖れを踏まえたうえでの知恵ある国土の利用を 考えてもらえるといいのになあ。

とにかく ゴルゴサーティーン気取りの政治家や 言い訳すり替え答弁の政府に 日本の先行きや 将来を見据える計画は どうもありそうにない感じがしています。

大河ドラマをみているのですが 西郷どんが感じたことと 井伊直弼が感じたことの差は 現代の庶民が感じているとと 政府がやっていることとの差に 似ているかもしれませんよ。

 

 

 

 


記憶 共感

2018-05-01 16:58:23 | むかしばなし

幼かったころの記憶や 若かったときの記憶はどうやってしまわれていて

思い起こすのはどんな経路をたどるのでしょう。

年老いて今のことはすぐ忘れるのに 昔の人の名前は覚えていたり 農作業は上手にできたりするものです。

実は 核になる経験や 体験を ことあるごとに繰り返しつなげて 書き足しているのかもしれません。

パソコンで記事を書いて記憶しておきたくても せいぜい10年もすると 企業側から疎まれ 移動や置き換えをせまられて そのうちごみとなって消えるのです。

一方 60年もの間 人の記憶は 風景や声や音を イメージで思い起こすことができます。

いつも作り変えられているはずの60年後の体でイメージが再現できているのが 不思議でなりません。

そして記憶は 必要な時や きっかけのようなものを得ると 自分を助けるように思い起こすのです。いや自分を壊すことに働くこともあるのでしょう。

 父親のひげをなでながら ちらりと視線を向けるしぐさが イメージで見えますし

ヤギの自分を見る様子が 土手の石畳と草むらと共に 匂いも一緒に思い起こすことができます。この熱効率のよさは 半端ではないはずです。

 

コミュニケーションが苦手な人が 一日のうちの一定の時間を割いて 空き缶やごみ拾いをしてくれています。その人とは 話したことも 目を合わせたこともないのですが

我が家の駐車場のごみも たいていは拾ってくれます。

ところが 以前 クリスマスの時期にシャンプーの空き瓶を飾りとして利用したことがありました。どうも そのことを 覚えてくれているようです。

 最近同じシャンプーの空き瓶を 花壇の縁取りに使うため転がしていました。

本来ならごみですから 拾ってくれるはずですが 乱雑におかれているのにもかかわらず 落ちたままになっていて そっとしておいてくれています。

これは 本当のコミュニケーションが 話はしないが 実際できているということだと思います。

一方 姑とのコミュニケーションは 言葉の上では 誤解が誤解を生み 互いにゆがんだままです。記憶に基づいて お互いを批判の方向で思い起こしているということなのでしょう。話をしてきていても 共感していなかったがために お互いのコミュニケーションはバラバラなままだったということのでしょう。

しかし 実は 姑が言葉にしていることは 本当の気持ちを表しているのではないかもしれないと 思い始めました。

いままでどおりの言葉を発して 年老いたわたしの面倒をみてくれないと非難しているのですが 実は今まで通り 面倒を見てくれないと非難できている自分を 再確認しているのかもしれないと思うようになりました。

なぜなら 本当に面倒を見にいけば 無くなったものが私のせいだといい

 いつもと違うものが存在すれば 自分のものではないから 置いてはいけないといい

してほしいことを進言したりすれば ヘント返しすると言い始め 

料理を作ろうとすれば そんなものは食べられないしいらないというのです。

手伝ったり 手を差しのべようとすると 戸惑って腹を立てだすんです。

実のところ 今のところ 思うようにすごして 思い付くことを発言して過ごせているのです。

そして 面倒を見てもらうようになるのは もう一年後だと 毎年言い続けて もう

少なくとも20年にはなるのです。

で 私の判断は 大きな失敗が始まるまで 現状維持で行くことにします。

ありがたいし 立派なものです。

 

 


手首の骨折 リハビリ

2018-05-01 00:49:51 | Weblog

長きにわたって手のひらの腫れ ちじかむ指 なかなか手ごわいです。

 

手だけの問題ではなくなり ヨガのポーズをしてみると かなりのゆがみが起き

膝のあたりに違和感が起きています。

まずは 左右の腕をまわして 徐々に改善するしかありません。

散歩も足の運びに注意しています。

 

いやはや全治半年かかるかもしれません。

 

気持ちをきりかえて なるべく楽しい時間をもうけることにしました。

で 自分はろくにできることがないので ショパンコンクールなどの演奏を 楽しんでいます。

果物のような音や 木漏れ日のような旋律 感情はゆさぶられ

時間のたつのを忘れて夢中になって聞けます。ショパンの曲は すごいですね。