旧浦上天主堂の被爆煉瓦を積み上げた鐘塔
鯛ノ浦ルルド
奇跡の町 ( フランス ) ルルドの由来
ルルドはフランスホートピレネーの山間にある町で、
聖母マリアの出現で、その名が知られている。
聖母の最初の出現は1857年 ( 安政5 ) 2月11日であった。
その頃、14才になる水車小屋の娘ベルナデッタは妹と隣家の娘と一緒に
ガーブ川沿いの山に薪を拾いに行った。 そこには古い洞窟があった。
ベルナデッタは川を渡るために木靴をぬごうとした瞬間突然大風が吹くような音を聞いた。
そして気高い若い婦人が野バラを踏んで立っておられるのを見た。
そしてその貴婦人はしばらくの間ここへ来るように」とベルナデッタに告げた。
こうして貴婦人とベルナデッタとの対話が始められ、
7月16日、カルメル山の聖母の祝日までに19回もつづいた。
そして11回目の出現には貴婦人は「ここに聖堂を建てるように」と仰せられ第9回目の出現には、
不思議な泉が湧き出て、第17回目即ち3月25日、
聖母マリアのお告げの祝日には「私は原罪の汚れなく宿った者です」とお答えになった。
これは正しくキリストのおん母マリアを指しての言葉であり、
そのしるしとして不治の病が一瞬で全治するような奇跡がたびたび起こるようになった。
斯くして美しい「貴婦人」と賤しい身分の「ベルナデッタ」との水いらずの対話の中で
聖母マリア希望と要求が時の移り変わりの多い世界の一つの谷間で見事に実現され、
それなりに実を結ぶに至ったのである。
現在この聖母出現の場所は世界的聖地となり、
全世界から巡礼者の群れでそこは埋まるようになり、
ベルナデッタも世界的な人気者となった然し彼女は、
これまでのように家事を手伝い羊の番などを続けていた。
1886年 ( 慶応2 ) 22才の彼女はヌヴェールの博愛教育姉妹会に入会した。
病身のため人目日つくような活動は出来なかったが、
いつも従順・克己・謙遜・忍耐・隣人愛などを神の前で実践し、
自他のために償いを果たした。
こうして彼女ベルナデッタは13年間の修道生活を見事に終え、
1879年(明治12)35才でこの世を去ったのである。
なおヌベールではベルナデッタの取り次ぎで、
多くの奇跡がありルルドでも1876年には聖母の望みどおり、
洞窟の上の岩盤には壮麗な大聖堂が建てられ、
そこでも奇跡が今なお行われているのである。
ちなみに聖地ルルドへの巡礼は毎年5月の聖母月に始まり、
10月のロザリオの月に終る公的巡礼祭典を目指して、
またそれに参加することだと云われている。
聖ヨハネ五島の立像
聖ヨハネ五島は、五島出身の19オ。
大坂で聖パウロ三木とともに捕縛されたイエズス会員である。
五島で、熱心なキリシタン信者の両親のもとに生まれる。
幼少のころは、長崎のイエズス会士に引き取られた上教育された。
天草の志岐でモレホン神父の同宿となり、共に上京して、大坂で働く。
聖パウロ三木とともに、大坂で捕らえられたとき、逃れようとすれば逃れられたが、
進んで殉教者の列に加わることを望んだと言う。
殉教の数時間前に、イエズス会修道士の誓願をを立てイエズス会への入会が認められた。
殉教の前、父親に対し 「 父上も神の教えのまことを信じ、
怠りなく神にお仕えくださるよう・・・ 」 と言って自分のロザリオを父に渡したと言われる。
中央に聖ヨハネ五島、左にプレール師、右に中田秀和画伯
フランシスコ・ブレール師
フランシスコ・ブレール師は1847年(弘化4)フランス・エル・モンヴィルに生まれ、
27才で司祭にに叙階され1876年(明治9)布教のために日本に渡り、
長崎市外周辺殊に伊王島などの司牧に従事されていたが、
上五島地区が下五島地区から独立した。
1880年(明治13)5月ブレール師は、
上五島地区主座教会鯛之浦教会の初代主任司祭として赴任され、
直ちに司牧と住居のためにわらぶきの長屋を建て、
向こう5年間下は奈留島の有福から上は野崎島の野首まで、
細長い五島列島を縦にとって日夜兼行全教会司牧に全力を注いでおられたのであった。
時に明治18年(1885)4月の上旬やっと寸暇を求め得たので、
新設教会並びに育児施設資金の受領のために外海の出津教会ド・ロ師の館に身を寄せていた。
たまたま五島鯛之浦じ危篤患者が出て最後の秘跡を望むと云うので、
地元の若者たちが互いに呼びかけ合い12名の水夫が選ばれて、
「神父お迎え船」を仕立て難所の多い五島灘を一気に押し切り、
只今出津の浜に着いたと云うのであった。
いやはやそれは恐れ入ったとの表情のブレール師は急いで船に飛び乗り、
暗雲たなびく西海沖の夕闇に向かって空の雲行きに一抹の不安も募りながら帰路についたのであった。
海は確かに時化ていて灘は既に嵐になっていた。
船は荒い波風にほんろうされ水びたしになりついに難破して波間に漂流することになったのである。
ふと沖合を見ると船影が見えたので助けを求めると、
その船は近づいて接舷し救助はしてくれたが、
外人のブレール師が多額の金品を所持していると知るや、
それらを凡て奪い取り跡形しこり残さぬようブレール師ほか水夫12名を船の舵棒で撲殺し、
船べり遠く放り捨て去ったとのことである。
然しまたほかに彼らはひどい舵棒の一撃をあたかも 「 主の十字架の木 」 と受けとめられ、
「 おお唯一の希望なる十字架よ 」 との賛歌を口づさみながら
船の板間を伏し、いとも静かに永遠の安息に入られたとのことである。
中田秀和画伯
郷土出身中田秀和画伯は幼少にして才覚才器に富み、
美術絵画彫刻などに趣味を持ち、やがて成長しては、単身上京して美術学園に身を置き、
その技術技工に精魂を打ち込み、ようやく斯の道に生きがいを覚えている時、
計らずも父倉吉の死出の旅に出会い
世の無常さもさることながら画伯の脳裡を掠取ったものはマリアへの依託の証として
郷土教会の構内の一隅にささやかなルルドを造ることであった。
ここで平素画伯に対して尊敬と信頼を示していた当教会の主任司祭浜口健市師(1960~1969)は、
画伯の性格とその技巧も十分に知っており、
若しこの地にフランスルルドの面影を少しでも表現できるルルドが出来るとすれば、
この上もないことだと期待を新たにし直ちに教会顧問会と信徒総会を開き、
画伯の設計施工を具体的に説明し信徒の勤労奉仕を除いては、
工事完成まで一切の責任を持つことを約束されたので、
いよいよ昭和37年(1962)1月初旬から本工事に着手することになったのである。
扨て施工に当たっては名分はそこらあたりの石ころを使っての手造りのルルドと云うのであった。
ドミンゴ森 松次郎
ドミンゴ森 松次郎は、大村キリシタンの伝統を受けて、
水方役に忠実であった森与重の長男松次郎翁は、幼少の頃より才学に秀で読書に精出し、
和洋の新書は大阪より入手し、独学独習で教養を高め、
成長しては、シーボルトの洋学に和漢学、四書五経に蘭学をも修め、
更に余生のためとして和歌に書道、詩に短歌なども物になし得る天才少年であり、
また若さに燃え立つ青春も、当時風雲児にかつぎ上げられた勝海舟や坂本龍馬のようなもでなく、
むしろ日陰者のキリシタンたちが、外道征伐の対衆から除外され、
新しい日本キリシタン造りに生命と生涯を賭得る逞しい壮年文士でもあった。
鷹巣キリシタン殉教の碑
鷹巣キリシタン殉教
1870年1月27日の深夜、鷹巣に住んでいた「中田寅吉」方に有川郷士と名乗る
4人組が「キリシタン征伐に来た」と怒鳴り込み、
寅吉の妻「ヨネ」、長男「勇次」、次女「レツ」、
平戸からお産に来ていたヨネの妹「コン」とコンの夫「友吉」を殺害、
それに加えてコンの胎児まで突き刺し、2家族計6名が残忍な殺害によって殉教した。
その後、6名の遺体と血痕は、福江からの検視役の調査を待って棺と容器に収容され、
遺体は聖堂裏の丘へ、血痕は聖堂脇の窪地に埋葬された。
後に4人の郷士は「赦されぬ新刀試し切り」として、切腹を申しつけられている。
この旧鯛ノ浦教会は二度目の訪問である。
鯛ノ浦は、外海の出津から移住して来たキリシタンの子孫にはじまる集落で、
五島崩れで迫害を受けた。
幕末から明治にかけて上五島のキリシタンたちの指導者として活躍したドミンゴ森松次郎の出身地で、
彼は1867 ( 慶応3 ) 年に、密かに長崎からクーザン神父を案内し、
11日間の滞在の間に鯛ノ浦から頭ヶ島にかけて宣教活動を行っている。
1880 ( 明治13 ) 年ブレル神父が赴任して上五島の司牧の拠点となる。
1903 ( 明治36 ) 年建立の教会堂の老朽化により、
1979 ( 昭和54 ) 年、旧教会堂の下の幼稚園跡地に新教会堂が建てられた。
旧教会堂は、終戦間近、鯛ノ浦港に特攻機地が設けられたことから海軍に接収され、
基地司令が置かれた。
戦後、復員などで手狭になり、1949 ( 昭和24 ) 年に煉瓦造の塔が正面に増築され、
このとき、旧浦上天主堂の被爆煉瓦を一部使用している。
この旧聖堂は、板張りの外壁と煉瓦造りの鐘塔との組み合わせがモダンな洋館の雰囲気を出している。