朝倉市秋月の野鳥川をまたいで、優美なアーチを描くひとつ目の石橋を、
地元の人は 「 秋月目鏡橋 」 と呼んでいる。
長さ17.9m、径間13.9m、拱矢4.5m、幅4.5m。
御影石を使った全国唯一の目鏡橋として県の文化財に指定されている。
江戸時代、甘木から秋月、八丁峠を超えて飯塚、豊前に通じるこの道は、
参勤交代の道でもあった。
当時、急流の野鳥川をまたぐ橋は木橋で、洪水のたびに流失した。
流されない石橋を架けることが秋月黒田藩の願いであった。
そこで、八代藩主・長舒 ( ながのぶ ) は、
筆頭家老宮崎織部の石橋架設の建議を受けて着工した。
工事奉行の江崎半兵衛は、長崎から石工を呼び寄せ、一年がかりの工事のすえ、
文化4年 ( 1807 ) 10月、最後の楔石を打ち込み、
いざ完成の段になって、石橋は一大音響とともに崩落した。
秋月藩の 「 白翁随筆 」 によれば、「 わきより見し者の話に、
真ん中のはさみ石一間あまり ( 約1.8m ) も飛び上がり、
すぐさまゆるみ、ばらばらに崩れ申し候。
これは上の重り石十分ならず軽かりし故ならん 」 と・・・
その欠陥を補って二度目の工事は見事成功、
文化6年 ( 1809 ) 10月、九代藩主・長韶 ( ながつぐ ) が検分する中を、
渡り初め式があり、今小路の久蔵老夫婦らが橋の上で 「 臼きび歌 」 を歌ってお祝いした。
目鏡橋は昭和51年 ( 1976 ) まで、バスやトラックを通していたため、
損傷が心配されていたが、同年、秋月ー八丁峠のバイパスが完成して、
長年の重荷を下ろした。
そんな石橋は、今では秋月の観光スポットそして人々に愛されている。
石橋の名称については、秋月藩は完成時に 「 長崎橋 」 と唱せよ。とお触れを出したが、
住民は初めから呼びならわしていた 「 目鏡橋 」 で通し、
いつの間にか 「 長崎橋 」 の名称は用いられなくなった。
また、住民は石橋の架設が一度失敗しているのを見ているため、
二度目の完成後もしばらくは 「 いつ崩れるとも計りがたく、
往来の者こ急ぎして通り申し候・・・その後、安心して通り候様なりたり 」 と記録にある。
所在地 / 福岡県朝倉市秋月魚町