琉球の歴史や沖縄のことなどを書いている 「 わわさんのブログ 」
【 がじゅまるの樹の下で 】 で知った本、 『 ザ・阿麻和利 』。
この本は、沖縄キリスト教短期大学の英語劇クラブと、
英語劇ドリームおよびアカバナーのために英語で執筆した
Amawari and Three Other Plays を和訳したもので、
劇での台詞なので、登場人物のやり取りなど解りやすいし、
その情景が如実に浮かんで来るので面白く、
一気に読み進められる本であった。
そんな 『 ザ・阿麻和利 』 の本と、
本の中で登場する主な人物の墓を掲載したが、
実在した人物の歴史を知る上で、
どこで生まれ、どこで育ち、どういう死に方をしたのか、
墓は必須だと思っている。
だが、こうした王や按司たちの墓は、金品目当ての墓荒らしや、
第二尚氏の徹底した骨までをも捨て去った第一尚氏への消滅行為を考えれば、
「 千の風 」 の歌ではないが、
たぶん、これらの墓の中に骨が入っていない空墓だと思われる。
ただ、骨が現存実在するのであれば、
平家の落人が名を変え、身分を隠して生き延びたように、
第一尚氏の家臣たちは王や按司たちの骨を乞食墓として隠し、
世が変わるまでその骨を大事に守ってきたのではないかと思われる。
読谷村古堅にある阿麻和利の岩陰墓
三山統一後に海外貿易の富で力を付けたのは、勝連城の阿麻和利であった。
その阿麻和利に対抗し王都首里を守るため、
護佐丸は首里城と勝連城との中間に位置する中城城に拠点を移し、
中部一帯の守りを固めた。
尚 巴志の死後、琉球は国王の在位年数が短かったため国の基盤が安定せず、
首里城内でも王位継承の争いが起こるなど不安定な状態が続いた。
こうした王国情勢のなか、阿麻和利を崇拝する民の勢力は
尚 泰久にとっては恐ろしい存在だったため、
泰久は娘である百十踏揚 ( ももとふみあがり ) と
阿麻和利を攻略結婚をさせるほどであった。
また、尚 泰久の妻は護佐丸の娘であるため、
百十踏揚は護佐丸にとって孫にあたった。
琉球の王位を望めるほど力をつけた阿麻和利は、
中城城の護佐丸の存在を疎ましく思っていた。
1458年に一計を案じた阿麻和利は、
中城城の護佐丸が軍兵を集めて謀反の動きがあると国王へ訴え、
それを聞いた泰久は、護佐丸を倒すために阿麻和利を総大将に命じて
軍隊を中城城へ派遣した。
その結果、護佐丸は阿麻和利の率いる王府軍に中城城を攻められ、
無実の罪を着せられて自害してしまう。
一方この戦いに勝利した阿麻和利は、王位を奪うための準備をしている最中に、
百十踏揚の家来である鬼大城 ( おにおおぐすく ) にその策略を気付かれ、
逆に王府軍との戦になる。
沖縄県うるま市の中高生を中心にした ” あまわり浪漫の会 ” による
現代版組踊 「 肝高の阿麻和利 」 は、
10万人が感動し泣いた劇は、涙なしでは観れなかった。
勝連、北谷間切屋良村などの固有名詞に、その情景が目に浮かび魂が震えた。
阿麻和利加那は ” 天降り加那 ” とも呼ばれ、地元勝連の人々は尊敬した。
そんな劇の台詞の一部を書いてみる。
勝連のニセター ( 青年 ) 、戦は終わった。
もはや刀や薙刀を振り回す時代ではないのだ。
ところがこの勝連半島は田畑も狭く作物も少ない。
だが、シンカヌチャー ( 仲間たち ) ものは考えようだ。
島が狭いということは、海が広いということだ。
海の向こうには唐があり、ヤマトがある。
世界中に船を走らせ、異国の宝を持ち帰ろうではないか。
勝連は海を走る。
勝連は海に生きる。
勝連は宝の島になる。
肝高の勝連は生まれ変わるのだ。
南城市玉城にある尚 泰久王の墓
中城村にある護佐丸の亀甲墓は、沖縄で一番古い亀甲墓と言われている
14世紀から15世紀の琉球は、
中山・北山・南山の三つのグスクを拠点に按司が支配していた。
その中で特に強い勢力を誇り、
1429年に三山を統一したのが中山の尚 巴志 ( しょうはし ) であった。
その尚 巴志に従い、三山統一に功績を残した人物が護佐丸である。
護佐丸は恩納村の山田城主であったが、
尚 巴志が北山を滅ぼした後、山田城を取り壊した石材を使って読谷に座喜味城を築き、
後に中城城へ移るまでの18年間を居城として過している。
南城市玉城にある百十踏揚の墓
百十踏揚 ( ももとふみあがり ) にまつわる人物
百十踏揚の父親は尚 泰久であり、母親は護佐丸の娘である。
阿麻和利は前夫で、護佐丸は祖父にあたる。
祖父は前夫に滅ぼされ、父は前夫を滅ぼしたのである。
そして、二度目に嫁いだ鬼大城も新王朝に滅ぼされてしまう。
晩年は島尻の玉城村で過ごし、その生涯を閉じた。
王女、百十踏揚は絶世の美女だったが、
その生き様は、ある意味?薄幸の生涯だったのかもしれない。
知花グスクにある百十踏揚に仕えていた大城里之子 ( 鬼大城賢雄 ) の墓
鬼大城 ( おにおおぐすく ) の活躍と最後
王府軍との戦いで首里城攻めに失敗し、
命かながら勝連城に逃げ帰った阿麻和利への、
鬼大城を総大将とした攻撃もなかなか勝敗が決まらず長引いていた。
そこで勝連城内の地理に詳しい鬼大城自ら城内へ忍び込んで行き、
阿麻和利の首を討ち取ったという。
その活躍により尚 泰久から越来 ( ごえく ) と、
具志川の両間切りの地頭に命じられた。
また、百十踏揚を妻に迎え、越来城を賜った。
( 一説には勝連城を賜ったとも言われている )
鬼大城の死については諸説があるが、
1469年内間金丸 ( うちまかなまる ) がクーデターを起こし、
尚 泰久の子である尚 徳王を滅ぼした。
第一尚氏王統の縁故者である鬼大城の越来城も攻められ、
鬼大城は越来城を逃れ知花城に立てこもりそこで自害する。
( 一説には隠れているところを焼き殺された ) とも言われているが、
定かではない。
鬼大城 ( おにおおぐすく ) について
名前 : 大城賢雄 ( おおぐすくけんゆう )
唐名 : 夏居数 ( かきょすう )
喜屋武城主の栄野比大屋子の長男
1454~1460年に尚 泰久に仕えていた。
鬼大城の由来
「 鬼 」とは超人の意の表れであり、武勇に優れ、
強かったことから「 鬼 」と呼ばれるようになった。