聖霊降臨祭、ペンテコテとも言う。聖霊の降臨をその一週間先の祭日トリニティーを先越しながら戻って捉えると、聖なる父、聖なる子イエス、聖霊の三位一体のキリスト教の独善的教示での精霊の降臨である。
降臨と言うと、特徴的な下降音形のマーラーの第八交響曲変ホ長調を思い浮かべるが、カトリック信徒はその原型である有名なグレゴリアン聖歌を思い浮かべる。四線ネウマ譜の学術的解釈の定まらない聖歌とロマン派音楽の中で仕事をした指揮者の作曲を較べる事は出来ない。しかしこの黄金の賛歌と言われる、旧約イザヤ11章、2-3「七つの美徳」の詩は、既に中世後期の英国の作曲家ダンスタブルの高度な多声音楽の中で、スコラ哲学風に観念的かつ何故か肉感的に扱われている。
天文・数学者であったダンスタブルは、その四声のモテットで更に違う本歌を組み合わせている。その一つ一つの歌詞を確りと追うことすら難しく、もともとその分離を意図していない。この作曲家がここで使っている技法は、イソリズムと言う方法であり、リズム的にも音価が二倍三倍に伸ばされて進行速度も変わる。だから歌われる言葉の数も違い、歌詞の節数も変わる。こうして三位一体の観念から導かれた協和して一体となった和声は、この作曲家の特徴ともなっている。
グレゴリアン聖歌のオリジナルの旋律に戻ると、嘗て英国で発達したソレム唱法は、上行、下行で音価を変えたりしていたので、グスタフ・マーラーの聞いた旋律はこれに準拠するのかもしれない。実際、中間部の、歌詞で言うとクレアトールの、うねうねとした節回をどの様に聞いていたのだろうか。この歌詞に合わせた冒頭の主題を一楽章のソナタ形式の中で明白に使って、この有名なテキストをソナタ構造に合わして並び替えたり加筆添削している。これらの改作を根拠として、作曲家の改宗さえ疑われている。しかしスコラ派の音楽ではその歌詞の順序を変えていないだけで、切り刻まれ削除されているにも拘らず異教的とは言われない。明快な降臨の音化とそれに続くリズム的推進は、原曲の旋律だけでなくラテン語のアーティキュレーションから導かれた、この作曲家にしては珍しく素直な解決方法と言える。
原曲が「スプリトス」を恰も両手で一気に頭上に持ち上げて上下に振り無重力に取り扱うのに対して、マーラーはその観念的な霊とも違う、芯があって恰も肉体を持っているかのように重力をかけて扱わう。その後もテキスト自体がソナタ形式を規範するかのように-殆んどベルクのオペラ「ルル」の形式と内容の関係を先駆して-テキストに添った自由自在の作曲を展開している。宗教的基本感情は、第一主題で「満たす」、「力」、「漲る」、「息吹」、第二主題部での「慰め」、「溢れる」、「灼熱」、「光」、「衰弱」、「強化」などの語彙が多様に音化されている。
提示部コーダ部分から展開部に至る架橋状の推移は「我らの弱き肉体と血に力を」の歌詞を扱い、その大きな流れを「われら感覚と精神に火をつけよ」でもってクライマックスへと一気に運ぶ。「悪霊を払い」でのストレットやフーガの技法は先輩ダンスタブルの切り裂かれ加速される節回しを思い起こさせ、超克して「聖なる父、聖なる子への」大きな確信へと導かれて、再現部へと突入する。
カトリック信仰の核心へと迫るかに見えて、自作の「浮世の愛と歓喜との平和と団結の詩」がここで歌われて、この作曲家の交響曲でお馴染みの聖俗の交差が織り込まれる。第二部で扱われるゲーテのファウスト哲学に先立ちシラーの歓喜の歌の俗性を想起させているかもしれない。霊は、浮世の一旦底辺まで下って、再びコーダへと進み、三位一体にその賛歌が堂々と歌われる。恐らく人生の絶頂にいる作曲家が、初めて意味を持って表現出来た聖俗合一でなかろうか。何れにせよ、ここでマーラーの真骨頂である聖と俗の対比と止揚は明白となっている。そして、第二部「ファウストの終景」に続く。
参照:永遠を生きるために [ 音 ] / 2005-05-16
降臨と言うと、特徴的な下降音形のマーラーの第八交響曲変ホ長調を思い浮かべるが、カトリック信徒はその原型である有名なグレゴリアン聖歌を思い浮かべる。四線ネウマ譜の学術的解釈の定まらない聖歌とロマン派音楽の中で仕事をした指揮者の作曲を較べる事は出来ない。しかしこの黄金の賛歌と言われる、旧約イザヤ11章、2-3「七つの美徳」の詩は、既に中世後期の英国の作曲家ダンスタブルの高度な多声音楽の中で、スコラ哲学風に観念的かつ何故か肉感的に扱われている。
天文・数学者であったダンスタブルは、その四声のモテットで更に違う本歌を組み合わせている。その一つ一つの歌詞を確りと追うことすら難しく、もともとその分離を意図していない。この作曲家がここで使っている技法は、イソリズムと言う方法であり、リズム的にも音価が二倍三倍に伸ばされて進行速度も変わる。だから歌われる言葉の数も違い、歌詞の節数も変わる。こうして三位一体の観念から導かれた協和して一体となった和声は、この作曲家の特徴ともなっている。
グレゴリアン聖歌のオリジナルの旋律に戻ると、嘗て英国で発達したソレム唱法は、上行、下行で音価を変えたりしていたので、グスタフ・マーラーの聞いた旋律はこれに準拠するのかもしれない。実際、中間部の、歌詞で言うとクレアトールの、うねうねとした節回をどの様に聞いていたのだろうか。この歌詞に合わせた冒頭の主題を一楽章のソナタ形式の中で明白に使って、この有名なテキストをソナタ構造に合わして並び替えたり加筆添削している。これらの改作を根拠として、作曲家の改宗さえ疑われている。しかしスコラ派の音楽ではその歌詞の順序を変えていないだけで、切り刻まれ削除されているにも拘らず異教的とは言われない。明快な降臨の音化とそれに続くリズム的推進は、原曲の旋律だけでなくラテン語のアーティキュレーションから導かれた、この作曲家にしては珍しく素直な解決方法と言える。
原曲が「スプリトス」を恰も両手で一気に頭上に持ち上げて上下に振り無重力に取り扱うのに対して、マーラーはその観念的な霊とも違う、芯があって恰も肉体を持っているかのように重力をかけて扱わう。その後もテキスト自体がソナタ形式を規範するかのように-殆んどベルクのオペラ「ルル」の形式と内容の関係を先駆して-テキストに添った自由自在の作曲を展開している。宗教的基本感情は、第一主題で「満たす」、「力」、「漲る」、「息吹」、第二主題部での「慰め」、「溢れる」、「灼熱」、「光」、「衰弱」、「強化」などの語彙が多様に音化されている。
提示部コーダ部分から展開部に至る架橋状の推移は「我らの弱き肉体と血に力を」の歌詞を扱い、その大きな流れを「われら感覚と精神に火をつけよ」でもってクライマックスへと一気に運ぶ。「悪霊を払い」でのストレットやフーガの技法は先輩ダンスタブルの切り裂かれ加速される節回しを思い起こさせ、超克して「聖なる父、聖なる子への」大きな確信へと導かれて、再現部へと突入する。
カトリック信仰の核心へと迫るかに見えて、自作の「浮世の愛と歓喜との平和と団結の詩」がここで歌われて、この作曲家の交響曲でお馴染みの聖俗の交差が織り込まれる。第二部で扱われるゲーテのファウスト哲学に先立ちシラーの歓喜の歌の俗性を想起させているかもしれない。霊は、浮世の一旦底辺まで下って、再びコーダへと進み、三位一体にその賛歌が堂々と歌われる。恐らく人生の絶頂にいる作曲家が、初めて意味を持って表現出来た聖俗合一でなかろうか。何れにせよ、ここでマーラーの真骨頂である聖と俗の対比と止揚は明白となっている。そして、第二部「ファウストの終景」に続く。
参照:永遠を生きるために [ 音 ] / 2005-05-16