Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

永遠を生きるために

2005-05-16 | 
グスタフ・マーラーの第八交響曲変ホ長調の第二部は、精霊満ち溢れるゲーテのファウスト終景の深渓である。木霊が返る、太く深く根が張るV字渓谷が描かれている。むしろ音楽からするとカスパー・フリードリッヒの「氷の海」を思い浮かべても見当違いではないだろう。要するに、ここで描かれるのは、精霊が執り成す汎神的な世界である。事実、作曲家は妻アルマにこの戯曲を、「ファウストは兎に角、玉石混合であり、その精神活動は、全人生を抱合する。そしてその要素にしばしば無垢の物質が混在してファウスト像を構成する。だからそこから得られる真実は、人其々、時代によって多岐に渡る」と語っている。

ここで、グスタフ・マーラーがその生涯を賭けて、創作・呈出した聖俗の交差が言葉として語られている。「恋人の結婚式の朝」、「窓の向こうの明るい舞踏会とこちらの葬儀の列」と作曲家自身のプログラムが語るように、全ては悪夢から覚めた現実もしくは黄泉の世界が絶えず隣り合わせとなっている。それは、音楽的にも鼓笛隊やブラスバンドを出現させ、急激な和声転換やスタッカによる表情変換、同じ素材の相対的意味付けなど、全てはここに向けられている通りである。具体例を挙げだすと限が無いが、言い換えると板子一枚下は地獄の情景である。

アダージョ序奏が繰り返され、そして再び隠者も加わり執拗にモットーを奏し、恍惚の神父と信心深い神父へと対比をつけながら「私の心を照らせ」を持って終わる。続くスケルツォは救済に始まり、アダジシモでは有名なアダージェントに代表されるような「中間地帯」の浮遊が繰り広げられる。多くの箇所は、小さな三部構造を形作り、これまたお得意のシンメトリーな構造も観念的な意味を持つ。マリア賛歌の博士から永遠の生命へと駆け上ると同時に「足場を壊し」で天地を引っくり返す。新約ルカスによる福音の7章36「罪深い女を許す」やヨハネスによる福音の4章「イエススとサマリアの女」らの贖罪の三人の女たちが今度は天と地を一挙に結びつける。そうして本当のフィナーレへと持ち込まれる。

ファウスト博士伝説やゲーテのファウストの内容を容易に触れる事は出来ないが、グスタフ・マーラーの解釈は、悪魔、マリア信仰や19世紀の救済思想とも一線を隔している。特に未だリヒャルト・ヴァーグナーの影響下にあった音楽の世界での、この変遷は特筆すべき事かもしれない。それ以前に、ここでは第一部で扱われた聖霊を接点として、ファウスト終景を組み合わせた事が稀有の大成功に繋がった。

新約聖書の前節ヨハネスによる福音の3章31「天から来られるかた」は、「天から来られるかたは、すべてのものの上におられる。地から出るものは地に属し、地のことを語る。…聖霊を限りなくお与えになるからである。おん父は御子を愛して、その子にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の生命を受けているが、御子に従わないものは、生命をみることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」と言うように語る。

要するに、聖霊による救済を以って交響曲が音楽的に統一されているだけでなく、この作曲家の過去の例えば第二交響曲「復活」の木がここで熟した果実を結んでいる。それはまた、この本職指揮者の作曲家が主観から客観への表現方法を獲得する軌跡でもある。その追い求めた世界観が一旦完成して、この後はその境界域を探っていくような挑戦に変わって行くと言っても良いかも知れない。そしてその世界観こそは、現代のインター宗教の風潮に近い。

最後にロマン派の画家カスパー・フリードリッヒの言葉を挙げる。「良く質問される。君はどうして、死や無常や終焉などと言う画材を頻繁に選ぶのかと。それは永遠を生きるために、一度は死に身を捧げなければいけないからだ。」。



参照:来たれ、創造主なる聖霊よ [ 生活・暦 ] / 2005-05-15
コメント (8)
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