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Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

蛇が逃れる所-モーゼとアロン(2)

2005-05-03 | 
出エジプト記(モーゼの書第二巻)4章に相当する場面は、シェーンベルクのオペラでは一幕三場で、民に神のお告げが知らされ、「見えないもの」への焦燥感と後に続く 生 贄 へ の 狂 乱 を暗示する。四場では、投げた律法を示す杖が知恵の蛇に変わり、モーゼが握る蛇の尻尾が再び硬い杖に変わるなどの情景が繰り広げられる。これを流転と転成と考えると今日的な見解となる。旧教のような奇跡ではないことは、注目に値する。蛇は、鰻の様に拘束しようとしても留まろうとはしない、蛇が逃れ行き着つくところに知恵の木が実っているのだろうか。繁栄への賛歌は同時にその影の世界を形成して、そこからは神の啓示への疑心暗鬼が生まれ、これが殆んど独善的な否定的確信へと到達する。

こうして導かれる狂乱が、出エジプト記32章に相当する二幕三場「黄金の子牛」と言われる有名なエピソードである。アロンは、民から金を集めてそれを溶かして崇拝する金の子牛の偶像を出現させ、祭りを祝う。

この情景は、絵画にも度々描かれている。1659年のレンブラントの作品や17世紀のニコラ・プーサンの作品などがある。モーゼが石版を受け取る情景では、1952年のシャガールの作品が有名である。文学では、シラーやマンの他幾つかの文学的解釈やパロディーなどもある。

シェーンベルクの該当の交響的な情景「黄金の子牛の踊り」は、「春の祭典」に匹敵する。数々の動物を引き連れた生贄の狂乱と「大地の歌」風の現世の情景や飲めや踊れの狂乱が形を変えながら繰り広げられる。管弦楽法はグスタフ・マーラーのそれを修めている。和声付けもこの曲で最も色彩的なだけでなく、舞台上演ではリズムのシステム化が振り付けの見せ所を提供する。松明が点されワインや油がなみなみと注がれ、され解体された動物の肉が投げ与えられ、血の海の中で生肉を頬ばると、大変グロテスクな情景が続く。生贄の処女の裸体が舞い、肉切り包丁はその胸や咽喉に突き刺さり血が迸り恍惚に浸る。男たちは女たちの服を片っ端から剥ぎ、生殖力と多産と快楽に耽る。これは、ダンテの煉獄と平行した世界と見ることも出来よう。

このような退廃や爛熟を表現する芸術を表現主義というが、この該当の作品は、それ以上の効果を得ている。それは、そこに神の摂理が隠されて生きているからである。「見得ざる」摂理こそが、その表現の客観に強化されて、旧約聖書創世記(モーゼの書第一巻)19章の「ソドムとゴモラ」と双璧をなすキリスト教でいう「七つの大罪」の浮世描写を具象化する。

ここでの律法がシェーンベルクの12の音を相対的に使った音楽技法である。それでは、現実の社会で今日新たに話題となっているこれらの戒律とは、我々にどのように働きかけるものだろうか?



参照:
否定の中で-モーゼとアロン(1) [ 文学・思想 ] / 2005-05-02
資本主義再考-モーゼとアロン(3) [ 歴史・時事 ] / 2005-05-04
荒野に生えた葡萄 [ 歴史・時事 ] / 2005-04-29
人のためになる経済 [ 文学・思想 ] / 2005-04-11
コメント (2)
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