いよいよ大詰め近づいて来た。第九回ラジオ放送「ファウストゥス博士」は、原作三十八章から四十二章までを扱わう。
ここまでのなにやら音楽や宗教や哲学の難しい話の緊張が一挙に解かれる。堰を切ったようにして流れ出るめくるめく情念の流れは、お涙頂戴の号泣と男泣きの連続かと言えば、流石に違う。さてどこがどう違うのか?
この作品の中でももっともエロティックで叙情的な四十章は、ミュンヘンの背後に広がる最高峰ツーグシュピッツェの屏風の懐に近づき、そして戻ってくる遠足の一日である。どうしてこれほどまでにこの一日の情景は特別なのか、それは物語の登場人物にだけでなく読者にもそれを問い掛ける。
ここから続く章は、ドイツ表現主義のエッセンスを搾り抜き、知的に再構成された文章でしかないが、それはまるで作曲家アルバン・ベルクの代表作「叙情組曲」などの名作群の文章化のようでさえある。
この遠足は、その目的が暈かされて召集されたもので、参加者各位は途上その主催者たる主人公で作曲家アードレアンの胸の内を各々に推測している。お目当ては、パウル・ザッハー指揮で自らのヴァイオリン協奏曲がトーンハレで演奏されたツューリッヒの音楽会で知りあった、フランス語を話しパリで活躍する舞台衣装デザイナーのマリーである。そして既に作曲家と深い仲になっている美男子で若いヴァイオリニスト、ルディーや作曲家の中部ドイツからの友人で陽気で瀟洒な翻訳家のルディガー、そして語り手のツァイトブロム夫妻などである。
列車の旅である。この区間をミュンヘンの中央駅から乗車した経験がある者ならばもしくはこの地域を旅行したことがある者ならば、ここに描かれる幾ばくかの小さな丘を奥の屏風へと近づいて行く感興が判るだろう。それは、未だ雪が凍りついた初春の出来事なのである。
しかし、この列車の進行に伴い潜在的な不安感などが、この一日のパッサカリア主題のように鳴り響くのは、その独特の地理のみならず、誰もが体験している、朝起きして、外気とは比べようもなく暖かい列車内で皆の顔を見ながらの、少し気まずいような、よそよそしいような会話に潜む深い響き故なのである。そう、どこか妙に緊張に神経が立っているあの雰囲気である。
しかも、そこには遠足の発案者であったヴァイオリニストと作曲家に興味を持ちつ持たれつのとても女性らしい若い女が居るのである。それを観察する語り手は、ところ構わず誰にでもスキンシップを取るヴァイオリニストに体を触られてうっとりする作曲家の姿にあの魔性の女との情景を回想させて、このヴィオリニストの肉体を影絵のように映す。
それは、ガルミッシュ・パルテンキルヘンの民俗音楽ロカールでの思いがけず長くなった休憩のエンツィアン・シュナップスやコーヒーの香りとともに、三十八章の企業家ブーリンガーのサロンパーティーでSP盤で響いたワルツなどの通俗名曲の調べと交差されて、より直接で肉体的な趣をそこに与える。
再び戸外へ、スキーヤーのルディガーを除いて、今度は残り六人を乗せた馬橇は、エッタールのルートヴィヒ二世のリンデンホーフ城を目指す。そして見学後に青空の下バロック教会へと足を伸ばす。そして、こじんまりとした谷のホテルで夕食を摂ると、こんどは今住まいを見たばかりの王についての評価が、語り手とヴァイオリニストの間で大論争となる。そして、帰りの列車では皆言葉少なく居睡りしながら中央駅へと戻って行く。
この章に続いて、ベルリンが包囲され、ラインの境が破られる時、語り手は、ヴィーンのコンサートツアーからハンガリーへ同行したヴァイオリニスト、ルディーが、上の遠足の次の週の朝早く作曲家に電話で呼ばれ、恋の使いを頼まれる情景を回想する。その「薔薇の騎士」への依頼の情景は、つとに情動的で、コッポラ制作映画「MISHIMA」の丸山明宏との別れの情景を思い出させるだろうか。それとも三十九章にて作曲家に恋心を打ち明けられる語り手の記述から、四十二章でのルディーの死までは、三島由紀夫の日記「裸体と衣装」や遺作長編第一部「春の雪」の終幕を想像させるだろうか。
「魔の山」の読者は、遠足での橇のシーンに、セッテムブリーニがハンス・カストロプにしっかりと手を合わせる決闘のシーンをだぶらせ、郊外の高揚の絶頂からミュンヘン市内の路上電車トラムの重い振動にパンタグラフの火花に付き添われる破局へと、「ヴェニスに死す」冒頭のような焦燥感や既視感を覚えるかもしれない。
不思議なことに、手元のフィッシャー1997年版文庫本の551ページの最下行の、ベルンでのヴァイオリン協奏曲の1923年の初演は、ラジオでは1924年と読み替えられていたようだ。新しく校訂された箇所であろう。
参照:
明けぬ思惟のエロス [ 文学・思想 ] / 2007-01-01
ここまでのなにやら音楽や宗教や哲学の難しい話の緊張が一挙に解かれる。堰を切ったようにして流れ出るめくるめく情念の流れは、お涙頂戴の号泣と男泣きの連続かと言えば、流石に違う。さてどこがどう違うのか?
この作品の中でももっともエロティックで叙情的な四十章は、ミュンヘンの背後に広がる最高峰ツーグシュピッツェの屏風の懐に近づき、そして戻ってくる遠足の一日である。どうしてこれほどまでにこの一日の情景は特別なのか、それは物語の登場人物にだけでなく読者にもそれを問い掛ける。
ここから続く章は、ドイツ表現主義のエッセンスを搾り抜き、知的に再構成された文章でしかないが、それはまるで作曲家アルバン・ベルクの代表作「叙情組曲」などの名作群の文章化のようでさえある。
この遠足は、その目的が暈かされて召集されたもので、参加者各位は途上その主催者たる主人公で作曲家アードレアンの胸の内を各々に推測している。お目当ては、パウル・ザッハー指揮で自らのヴァイオリン協奏曲がトーンハレで演奏されたツューリッヒの音楽会で知りあった、フランス語を話しパリで活躍する舞台衣装デザイナーのマリーである。そして既に作曲家と深い仲になっている美男子で若いヴァイオリニスト、ルディーや作曲家の中部ドイツからの友人で陽気で瀟洒な翻訳家のルディガー、そして語り手のツァイトブロム夫妻などである。
列車の旅である。この区間をミュンヘンの中央駅から乗車した経験がある者ならばもしくはこの地域を旅行したことがある者ならば、ここに描かれる幾ばくかの小さな丘を奥の屏風へと近づいて行く感興が判るだろう。それは、未だ雪が凍りついた初春の出来事なのである。
しかし、この列車の進行に伴い潜在的な不安感などが、この一日のパッサカリア主題のように鳴り響くのは、その独特の地理のみならず、誰もが体験している、朝起きして、外気とは比べようもなく暖かい列車内で皆の顔を見ながらの、少し気まずいような、よそよそしいような会話に潜む深い響き故なのである。そう、どこか妙に緊張に神経が立っているあの雰囲気である。
しかも、そこには遠足の発案者であったヴァイオリニストと作曲家に興味を持ちつ持たれつのとても女性らしい若い女が居るのである。それを観察する語り手は、ところ構わず誰にでもスキンシップを取るヴァイオリニストに体を触られてうっとりする作曲家の姿にあの魔性の女との情景を回想させて、このヴィオリニストの肉体を影絵のように映す。
それは、ガルミッシュ・パルテンキルヘンの民俗音楽ロカールでの思いがけず長くなった休憩のエンツィアン・シュナップスやコーヒーの香りとともに、三十八章の企業家ブーリンガーのサロンパーティーでSP盤で響いたワルツなどの通俗名曲の調べと交差されて、より直接で肉体的な趣をそこに与える。
再び戸外へ、スキーヤーのルディガーを除いて、今度は残り六人を乗せた馬橇は、エッタールのルートヴィヒ二世のリンデンホーフ城を目指す。そして見学後に青空の下バロック教会へと足を伸ばす。そして、こじんまりとした谷のホテルで夕食を摂ると、こんどは今住まいを見たばかりの王についての評価が、語り手とヴァイオリニストの間で大論争となる。そして、帰りの列車では皆言葉少なく居睡りしながら中央駅へと戻って行く。
この章に続いて、ベルリンが包囲され、ラインの境が破られる時、語り手は、ヴィーンのコンサートツアーからハンガリーへ同行したヴァイオリニスト、ルディーが、上の遠足の次の週の朝早く作曲家に電話で呼ばれ、恋の使いを頼まれる情景を回想する。その「薔薇の騎士」への依頼の情景は、つとに情動的で、コッポラ制作映画「MISHIMA」の丸山明宏との別れの情景を思い出させるだろうか。それとも三十九章にて作曲家に恋心を打ち明けられる語り手の記述から、四十二章でのルディーの死までは、三島由紀夫の日記「裸体と衣装」や遺作長編第一部「春の雪」の終幕を想像させるだろうか。
「魔の山」の読者は、遠足での橇のシーンに、セッテムブリーニがハンス・カストロプにしっかりと手を合わせる決闘のシーンをだぶらせ、郊外の高揚の絶頂からミュンヘン市内の路上電車トラムの重い振動にパンタグラフの火花に付き添われる破局へと、「ヴェニスに死す」冒頭のような焦燥感や既視感を覚えるかもしれない。
不思議なことに、手元のフィッシャー1997年版文庫本の551ページの最下行の、ベルンでのヴァイオリン協奏曲の1923年の初演は、ラジオでは1924年と読み替えられていたようだ。新しく校訂された箇所であろう。
参照:
明けぬ思惟のエロス [ 文学・思想 ] / 2007-01-01