寝不足である。なぜならば、YOUTUBEで荒川静香の映像を幾つか熱心に観てしまったからである。NBCの映像は、共同映像の反対側からの映像のようだが、全体的な印象は変わらない。何故今頃、急にと思うかもしれないが、トーマス・マン「ファウストゥス博士」、ヘーゲルの美学、グローバル市民社会、シュトックハウゼンの前衛と来ると、これが皆ここに収斂してしまったのである。
荒川静香に関しては、トリノオリンピックの生中継の一部とその前の選考選やその後の写真等でイメージを固めたものでしかない。もちろん世界のスポーツ報道関係者のような定まった印象もない訳である。それでも競技以外の情報などから様々な漠然とした定まらない印象を得ている。
そして何よりも、FAZ新聞に掲載された日の丸から顔を覗かせる表情は鮮烈なものであり、日章旗嫌いの人間にも美的な印象を強く残した素晴らしい写真であった。それを捨ててしまったのは悔やまれるが、あの紅色と高潮して薄っすらと赤味の射した表情は忘れられない。
米NBCの中継者などが示した自然な美的な感動は、俗にある日本趣味やエキゾティズムへの賛歌とは一線を隔している。そのように広範に訴え掛ける美に興味を持った。そして、NHK制作の有名人が「母校を訪ねる番組」のダイジェストなどを観て、その核心が、どうにか重く頭痛気味の思考にも幾らか呑み込めた。
向けられた対象に想像力を一杯に働かして得る個人の個性などよりも、出来る限り抽象的にその現象を捕らえる時、またそれを許すクールさが本人の人格から伺えるとしても、先ほど逝去したシュトックハウゼンの前衛を貫いた人格などと重ね合わせる事が出来るのである。
その基本には、やはり肉体を制御して動かすスポーツが存在して、あのオリンピックの最後の演技などを観ていると、合理的な無駄のない動きが殆ど古臭いような古典の調和をイメージさせる。それを、容易にギリシャ的な美とかオリンピック精神とか評してしまう積りはないが、そこに即物的でありながら精神的な調和を見るのである。
さてこうした即物な精神活動要するに合理的な肉体の動きこそが、そのNHKの番組でモットーとして示されていたそれを司る動機「自分一人のためでなく」と言う意味に深く繋がっている。しかしその番組のダイジャストを観る限り、どうしても月並みで詰まらない社会規範のような道徳心へと流れがちになるのだが、その一方、思慮深い聴視者は執拗に本人の口から強調される「皆からの力」に関心が向ったのではなかろうか。
そしてそれは少し間違うと、精神論的な心霊的なオカルトにしかならないが、それは明らかに「自己と他者との関係における反照」としての知的で覚醒した認知として捉えられることも出来る。誤解を恐れずに言えば、そこにあるのは、プロテスタンティズムの延長にある「一人、空に対峙する」ような、外界からの反照を通して、はじめて自我をそこに定義するような二十世紀の哲学である。
シュトックハウゼンの衣装としての前衛とその「前衛な自我」についての示唆がコメントによって与えられたが、その訃報の新聞評にもあるように、そこで必要となる筈の対峙こそが、魅力とエゴイズムに彩られた子供っぽい世界観としてすりかえられてしまったとすることも出来よう。そこに使われる子供っぽさと言うのは、同僚の作曲家ブーレーズが評するような知的な芸術家に対しての評価としては、どうしても否定的な言葉でしかない。そのように考察を進めていくと、社会における前衛の位置付けも可能となる。
そして、トーマス・マンの作品で語られ、今現在我々読者が関心を持つのは、そこで描写されている独善や隔離された観察であって、まさに前衛によって進められた構造主義的な思考への信仰告白の姿であった。
このように眠い脳で暫し考えを進めていくと、所謂倫理とか規範と言う衣装を脱がしていくと、その核にある如何わしい姿が明らかになるのである。しかし、それらには、覚醒を避けて自己と対峙しない人を安心させてその日までを送らせてくれるモルヒネのような効用が見られる。それは、信仰と呼ばれる如何なるものにありえる。
また、そこではその社会を安易に上から値踏みする誤りが示唆されていて、西洋に限らず外から中央集権的な日本国などを見た場合、あのような自我の確立した誰もが理想とする若いスポーツ選手の精神と肉体が「田舎 ― 表面的に西洋化してすっぽりと意思の流通のグローバリズムの環に組み込まれている都会でないものを指す」から現れた驚愕の声が発せられる。それをして、日本的だ、そのものだと叫ばせる文化的な背景が説明され、ステレオタイプなイメージを越えることではじめて発見される要素となっている。
そしてそのような月並みなイメージから逃れられないのは、なにも月並みな人間のみならず、大遺伝子学者ジェームス・ワトソン博士などでも変わらない。黒人の知能を学術的に蔑んだのは良いが、自らがその黒人の遺伝子情報を予想の1%に反して16%も保持していて期待されたアジア的な情報は9%にしか至らなかった、本人にとっても至極満足の出来る結果となっている。なるほど、新聞の写真は、肌色が黒っぽく、鼻も横に開き気味である。
つまり、これは民族にも言えて、例えば日本と言う社会を自ら説明する言葉や主義などが無用であり、衣装を剥ぎ取ってそこに残るのは「ある理想」でしかない事を語っている。その理想像が上で言及した写真であり、それはどのような上からや外からの主義主張や構造などでは実体化出来なかった肉体を獲得している。
しかし、そのように依存しなければいけないひ弱な社会は、西欧社会にもれっきと存在していて、なにも隣町まで三キロどころか数十メートルもいかないでも、なんらかの教えに従わなければ生きていけない普通の人間が生息して、それらが集まって共同体を形成している。そこでは、どうしても月並みな必要悪の概念が交換される事となる。
話をここまで引っ張ってきたからには、さらにハーバーマスから社会学者ニクラス・ルーマンへと視界を広げ、その思考スケッチのようなメモカードが、このほど遺族と大学の間で話がまとまり、系統的に学術資料として整理されることになったことを余談として書き置く。
参照:
痴漢といふ愛国行為 [ 雑感 ] / 2007-11-26
民族の形而上での征圧 [ 文学・思想 ] / 2007-12-02
荒川静香に関しては、トリノオリンピックの生中継の一部とその前の選考選やその後の写真等でイメージを固めたものでしかない。もちろん世界のスポーツ報道関係者のような定まった印象もない訳である。それでも競技以外の情報などから様々な漠然とした定まらない印象を得ている。
そして何よりも、FAZ新聞に掲載された日の丸から顔を覗かせる表情は鮮烈なものであり、日章旗嫌いの人間にも美的な印象を強く残した素晴らしい写真であった。それを捨ててしまったのは悔やまれるが、あの紅色と高潮して薄っすらと赤味の射した表情は忘れられない。
米NBCの中継者などが示した自然な美的な感動は、俗にある日本趣味やエキゾティズムへの賛歌とは一線を隔している。そのように広範に訴え掛ける美に興味を持った。そして、NHK制作の有名人が「母校を訪ねる番組」のダイジェストなどを観て、その核心が、どうにか重く頭痛気味の思考にも幾らか呑み込めた。
向けられた対象に想像力を一杯に働かして得る個人の個性などよりも、出来る限り抽象的にその現象を捕らえる時、またそれを許すクールさが本人の人格から伺えるとしても、先ほど逝去したシュトックハウゼンの前衛を貫いた人格などと重ね合わせる事が出来るのである。
その基本には、やはり肉体を制御して動かすスポーツが存在して、あのオリンピックの最後の演技などを観ていると、合理的な無駄のない動きが殆ど古臭いような古典の調和をイメージさせる。それを、容易にギリシャ的な美とかオリンピック精神とか評してしまう積りはないが、そこに即物的でありながら精神的な調和を見るのである。
さてこうした即物な精神活動要するに合理的な肉体の動きこそが、そのNHKの番組でモットーとして示されていたそれを司る動機「自分一人のためでなく」と言う意味に深く繋がっている。しかしその番組のダイジャストを観る限り、どうしても月並みで詰まらない社会規範のような道徳心へと流れがちになるのだが、その一方、思慮深い聴視者は執拗に本人の口から強調される「皆からの力」に関心が向ったのではなかろうか。
そしてそれは少し間違うと、精神論的な心霊的なオカルトにしかならないが、それは明らかに「自己と他者との関係における反照」としての知的で覚醒した認知として捉えられることも出来る。誤解を恐れずに言えば、そこにあるのは、プロテスタンティズムの延長にある「一人、空に対峙する」ような、外界からの反照を通して、はじめて自我をそこに定義するような二十世紀の哲学である。
シュトックハウゼンの衣装としての前衛とその「前衛な自我」についての示唆がコメントによって与えられたが、その訃報の新聞評にもあるように、そこで必要となる筈の対峙こそが、魅力とエゴイズムに彩られた子供っぽい世界観としてすりかえられてしまったとすることも出来よう。そこに使われる子供っぽさと言うのは、同僚の作曲家ブーレーズが評するような知的な芸術家に対しての評価としては、どうしても否定的な言葉でしかない。そのように考察を進めていくと、社会における前衛の位置付けも可能となる。
そして、トーマス・マンの作品で語られ、今現在我々読者が関心を持つのは、そこで描写されている独善や隔離された観察であって、まさに前衛によって進められた構造主義的な思考への信仰告白の姿であった。
このように眠い脳で暫し考えを進めていくと、所謂倫理とか規範と言う衣装を脱がしていくと、その核にある如何わしい姿が明らかになるのである。しかし、それらには、覚醒を避けて自己と対峙しない人を安心させてその日までを送らせてくれるモルヒネのような効用が見られる。それは、信仰と呼ばれる如何なるものにありえる。
また、そこではその社会を安易に上から値踏みする誤りが示唆されていて、西洋に限らず外から中央集権的な日本国などを見た場合、あのような自我の確立した誰もが理想とする若いスポーツ選手の精神と肉体が「田舎 ― 表面的に西洋化してすっぽりと意思の流通のグローバリズムの環に組み込まれている都会でないものを指す」から現れた驚愕の声が発せられる。それをして、日本的だ、そのものだと叫ばせる文化的な背景が説明され、ステレオタイプなイメージを越えることではじめて発見される要素となっている。
そしてそのような月並みなイメージから逃れられないのは、なにも月並みな人間のみならず、大遺伝子学者ジェームス・ワトソン博士などでも変わらない。黒人の知能を学術的に蔑んだのは良いが、自らがその黒人の遺伝子情報を予想の1%に反して16%も保持していて期待されたアジア的な情報は9%にしか至らなかった、本人にとっても至極満足の出来る結果となっている。なるほど、新聞の写真は、肌色が黒っぽく、鼻も横に開き気味である。
つまり、これは民族にも言えて、例えば日本と言う社会を自ら説明する言葉や主義などが無用であり、衣装を剥ぎ取ってそこに残るのは「ある理想」でしかない事を語っている。その理想像が上で言及した写真であり、それはどのような上からや外からの主義主張や構造などでは実体化出来なかった肉体を獲得している。
しかし、そのように依存しなければいけないひ弱な社会は、西欧社会にもれっきと存在していて、なにも隣町まで三キロどころか数十メートルもいかないでも、なんらかの教えに従わなければ生きていけない普通の人間が生息して、それらが集まって共同体を形成している。そこでは、どうしても月並みな必要悪の概念が交換される事となる。
話をここまで引っ張ってきたからには、さらにハーバーマスから社会学者ニクラス・ルーマンへと視界を広げ、その思考スケッチのようなメモカードが、このほど遺族と大学の間で話がまとまり、系統的に学術資料として整理されることになったことを余談として書き置く。
参照:
痴漢といふ愛国行為 [ 雑感 ] / 2007-11-26
民族の形而上での征圧 [ 文学・思想 ] / 2007-12-02