Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

情報巡廻で歴史化不覚

2008-10-27 | アウトドーア・環境
承前)つまらない映画「ノルトヴァント」において、ただ一箇所声が上がったシーンがある。ナチスドイツのミッテンヴァルトの第百山岳部隊の男便所を素手でタワシする場面である。雪の中でも冷たくないのだ。根性を鍛えなければいけないのだが、主人公の二人は、衛兵の「ハイルヒットラー」にも「サーヴス」としか答えない。

アルピニズムは、未曾有の近代戦争ではつまり将棋の駒が配置され嘗ての戦雄がもはや存在し得なくなったが如く、そうした時の流れを経てその質が変貌して行く。しかし、それ以前にユダヤ人であるパウル・プロイスの試みとして既に近代批判が書き加えられていた。それは、彼の辛辣な近代的用具への制限で、それによってアンチモダーンへと純粋に自然と対峙していく騎士的でスポーツの掟の尊重であった。1911年にはドイツアルプス新聞にハイパーモダーンな登攀技術による歴史の進展を宣言して、その発言は「まるで山に丸腰で向うようだ」と、その初心者への危険な影響などが物議を醸し出した。つまり、1910年の時点において山岳リゾ-トには山用品産業の広告が用意されて、「ただ一人山に挑む」とする哲学は文明社会から既に忘れ去られていたことを裏打ちしているとされる。

時を同じくして登攀上の技術は、反作用を利用する突っ張り技術(レイバックス)などの進展をみて、摩擦を利用する懸垂下降技術(肩絡み)共々ミュンヘンのアカデミカーハンス・デュルファーによって開発されるが、同時に登攀の難しさが五段階に格付けされて、更に上へと階級が開くことで当然の如くより困難な方向へとの心理的欲求から技術的要求が課される。

そして、1926年にアイスハーケンを開発したヴィロ・ヴェルツェンバッハによってルートや登攀の難しさの第六級が提唱される頃から、今までに設定していた安全や難しさを越える領域がエリートによって目指されることになる。

またシュテファン・ゲオルク一派でありトーマス・マンに多大な影響を与えたエルンスト・ベルトラームが1911年に「ニッチェと山」と題してアルペン新聞に書いていることからも分かるように、丁度第一次世界大戦後の極端な近代主義の反作用である表現主義やノイエザッハリッヒカイトへと、あまりにも冷徹なミリタリズムが神秘主義的な方向と同時に一種の「死への憧憬」の発展を加速させる。

余談ながら、先ほどパリにてエミール・ノルトの個展が初めて開かれたようで、エルンスト・ユンガーのフランス文学殿堂入りと、ドイツ表現主義への彼の地での無視は大変に興味深い文化現象である。

そしてここにおいてようやく武器をピッケルに持ち替えて、敵味方に別れ、自らを「死の領域」へと追いやるイデオロギーが強化されるのだが、その実は「死への憧憬」も「集団主義」も少々力のある本物のアルピニストとは全く相容れなかったのはその歴史的発展から考えれば自明のことなのである。

今回の「つまらない映画」の価値はまさにそこにある。我々の多くは、当時の新聞が書きたてたような何の将来性も無い田舎者の名誉欲と一発勝負の神風野郎が大きな目標であるアイガー北壁を登る事によって、第三帝国でナチスの官僚のように出世しようとしたかの印象とその悲惨さを思うのだが、実力ある若い登山家がそのような人種であるかどうかは冷静に考えれば判るのだ。それはなぜかと言えば、登攀という行為自体に「ある種の冷静さ」が根底にあり、ゲマインシャフトから遠ざかるほど働く「帰巣本能」が存在しているからに違いないからである。勿論、前者をしてそこにザッハリッヒカイトの冷血さを見て、後者に土着的な気風を見るからこそ、メディアの視点が広く社会に影響を与えることになるのである。その両者の融合こそがこの映画監督の基本コンセプトであり失敗なのである。

つまり、上の論文にもある様に映像化などのメディアの話題性が、そもそも見られる側と見る側の双方に影響していて、知らず知らずの内に ― 例えばエヴェレストでのグロテスクな大量遭難事故で ― 商業主義を批判してそれを批判の矛先と商業的な目的化するように、またそうした商業的に注目される場所であるからこそ一見アルピニズムに準拠しているような錯覚をもって集まる登山者が多く存在していて、そこで起っている本当の姿はメディアを通じて何一つ伝わっていないと言うメディア自体の問題こそが議論の対象なのである。

要するに、我々の認知は、情報を通じて形成されていて、その分析された情報によって新たな認知が生じる。もちろん、その認知自体がヴァーチァルな情報の洪水とルーティンのなかに溺れてしまっているとすれば、その情報を分析することすら不可能となるのではないだろうか。

論文は、「冷徹な現代批判や、危険神話や、前衛的なダイナミズムや、情報の基礎命題化において、極限志向の時代が既に歴史化していることを覚えさせるような瞬間などない」と結論している。



参照:
Gegen das sieche Chinesentum von Gerald Wagner, FAZ vom 21.9.08
Nordwand, Kritik von Marcus Wessel
ヒューマニズムの挑戦 [ アウトドーア・環境 ] / 2006-05-29
エゴの覚醒と弁証の喧騒 [ アウトドーア・環境 ] / 2005-08-19
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コメント (6)
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