Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

日隅一雄のジャーナリズム

2012-01-16 | SNS・BLOG研究
どれほど多くの人がBLOG「情報流通促進計画」を訪問したか知らない。ここ暫く所謂ペインコントロールの闘病生活が語られている。個人的に知己のない我々でも東電・統合記者会見での日隅氏の活躍を知らずには居られまい。そして、麻薬投与を始めてからのBLOGでの報告は、そうした既存の情報が少ないとしてプロフェッショナルなジャーナリズム的な決断で急遽行われている。

その飽く迄も理性と冷静さを失わない客観的な視点は、ややもするとそれまでの氏のBLOG訪問者にとっては鼻持ちならないような一種の唯物論的な視点と映ったに違いないのである。少なくとは個人的にはそのように感じていた。

しかしここに至ってのその現状報告は、痛みをこらえ、麻薬で薄らいだ意識などを全く感じさせないとても強い表現意志となっている。最新の報告には、「マスメディアを批判してきた私の渾身の一枚」として称して、癌によってやつれて肋骨が浮き、癌によって膨れた腹部の自画像が掲載されている。なんと意志に満ち溢れた強い表現だろう。

末期癌の本人のBLOGなどは少なくないが、正しく日隅氏が確信したように十分なこうした冷静な視点での情報は皆無に違いない。要するにそこにあるのはジャーナリストを超えての表現者の意志なのである ― そうした意志が個人の肉体が消滅した後も受け継がれることを我々は文化と呼ぶ。

一昨年に肺癌で死去した舞台映像表現家シュリンゲンジーフなども同年輩であり、最後まで自らの闘病を含めての生を表現の対象ともしたが、これほどまでにザッハリッヒであり何処までも冷静で客観的な表現は知らない。恐らく、そのこと自体が法学を学んだ日隅氏にとってのジャーナリズムの本質なのであろう。

なるほど受け手によっては、その内容の感じ取り方は異なるかもしれない。その写真を観て、皮肉にも殆ど逆説的に世紀の芸術家が渾身の力を振り絞って表現したまるでイエスキリストの受難のそれを思い浮かべるかもしれない。勿論、受ける人其々であるが、そうした表現の強い意志をそこに感じさせることだけで十分なのである。

自由報道協会は社団法人となり公共性を増すと共に、ジャーナリストへの賞を授けることになるようである。その賞は既に日隅氏の名を冠すると内定されているようである。こうした何処までも理性的で客観的でありながら意志に満ち溢れた表現の出来るジャーナリズムにその賞が授けられるとなれば、それはとても素晴らしい。

生物であるから万人に訪れる死であり、経験談すら聞けないために未だに最大の人類の未知でもあるが、哲学や宗教を含む芸術とか表現とかは ― どのような文化的な背景があろうとも ― その前提を無視しては一切表現できないのである。特に文学の一形態でもあるジャーナリズムが、そうした根源的な表現意志もないままにマスメディアを形成していては本当のジャーナリズムにはならないのである。

もう一度繰り返すが、この自画像を観て、受け手が何を読み取るか、何を感じるか、何を考えるかが大切なのである。



参照:
反社会的犯罪組織を解体せよ 2011-08-01 | マスメディア批評
セシウムも降り注ぐマイホーム 2012-01-07 | アウトドーア・環境
文学としてのジャーナリズム 2012-01-04 | マスメディア批評
最も同時代的な芸術家の死 2010-08-24 | 文化一般
甘酸っぱい野いちごの風味 2010-09-01 | 文化一般
希望という自己選択の自由 2009-06-19 | 文化一般
若き芸術家の癌病闘日記 2009-06-07 | 文化一般
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